時事旬報社

時事問題を合理的な角度から追って行きます

心に残る昭和の名画とドラマ

 

 

 「これまでの人生で最も感動した映画とドラマは何か」、この質問に即答できる人は少ないでしょう。名画や名作と呼ばれる映画、ドラマは無数にあります。とても一つに絞れるものではありません。ところが記者の場合、「アレとコレ」と断言できる一作があります。
 もとより文芸や演劇には、ほとんど関心が無く、「見た」作品も圧倒的に少ないのですから「アレとコレ」と確定できるのでしょうし、社会経験が未熟な多感な時期に「見た」ので、殊更印象深いということもあるでしょう。
 ともに「こぼれる涙を抑えることができない」感動のラストシーンであることが共通し、「生きるとは」を考えさせられる一作であることも共通しています。
 その「アレとコレ」は、「喜びも悲しみも幾歳月」(邦画)と「ROOTS」(米国TVドラマ)です。平成も残り僅か、昭和は遠のくばかりですが、記者が知る昭和の30余年間で出会った自己中な感動の巨篇2作を記録に残しておきます。

 

喜びも悲しみも幾歳月


 「おいら、岬の灯台守は、、、」の主題曲で有名な「喜びも悲しみも幾歳月」(松竹:木下恵介監督)が封切られたのは1957年、戦後の復興から高度成長へと繋ぐ過渡期でした。テレビ放送はすでに始まっていましたが、総天然色の映像娯楽といえば、圧倒的に映画の時代でした。記者がこの一作を観たのは、どこかの名画座だったと思います。二時間を越える大作ですが、登場人物にはタダの一人も「悪人」がいないという希有な作品で、出演者全員が純朴に誠実に自らに与えられた人生を全うします。


 物語は戦前戦後、日本の僻地へと転勤を繰り返しながら、過酷な駐在生活を送る灯台守夫婦(有沢四郎と妻きよ子)の生き様を描きます。灯台守とは、航海の安全を守るため灯台の灯火を維持する職員のことです。職員は3-5年のローテーションで転勤を繰り返し、台長(灯台長)他2-3組の職員夫婦で現地の灯台を守ります。


 殆どの灯台は岬の先端や離島など人里から隔絶された場所にあり、今のように交通機関も発達していないので町に出ることも容易ではありません。きよ子夫人は、夫(有沢四郎)と見合い後、即日嫁ぎ、結婚日の夜行電車で赴任地に赴く慌ただしさで、灯台勤務が何たるかも知らず夫との灯台守生活をスタートさせます。


 赴任日の当夜、きよ子は宿舎を兼ねる灯台官舎で、発狂した醜女と鉢合わせとなり怖気立ちます。僻地であるがためまともな医療を受けられず、目の前で息子を亡くし発狂した同僚の妻です。きよ子は今後の辛苦を予感します。


 その洗礼は直ぐに訪れます。雪深い北海道の赴任灯台で初めての出産を迎えますが、産婆が間に合わず、長女は夫が自ら取り上げました。体調を崩した同僚の妻は、病状が急変、ソリを仕立てて急遽町の病院へと向かいますが、ソリの中で息絶えました。離島灯台での勤務では真水が慢性的に不足しており、海水を含んだ水でつくる料理が夫に不評で、仲のいい夫婦にも亀裂が走ります。別の灯台では、上司の台長が暴風雨の中、故障した風速計を修理中に転落死しました。戦争中、灯台は米軍艦載機の攻撃目標となり何人もの灯台守が国内で「戦死」しました。


 危険と不便、更には社会との隔絶という押しつぶされそうな暮らしの中で、二人の子供だけが夫婦の唯一の生きがいとなります。しかし職員家族数人だけの閉鎖された暮らしで、同年代の子供友達も居ない不憫、もっと高等な学問を修めるため進学もさせてやりたい、と願い夫婦は、子供を東京の知人宅に下宿させることを決めます。


 ところが別居先で長男は町のトラブルに巻き込まれ命を落し、夫婦の生きがいは娘一人となってしまいます。その娘も縁があり学校卒業後、貿易会社に就職した青年と結ばれます。娘の帰郷を心待ちにしていた夫婦は落胆します。それどころか追い打ちを掛けるように娘婿最初の転勤地が、カイロ(エジプト)となってしまいます。一般人が移動に飛行機が使えるような時代ではありません。赴任するだけで何週間もの船旅ですから、もはや盆暮れに娘夫婦と出会うことも叶いません。「よりにもよってアフリカとは」、、、。


 そして映画はクライマックスを迎えます。

 勤続27年にして有沢四郎は静岡県御前崎灯台に初めて台長として着任します。ある日の夕刻、漆黒の大海を一直線に照らす巨大な灯火を背に、灯塔の露台手すりには双眼鏡を手にした有沢夫妻が身を投げださんばかりに居並びます。「やってきた」の声にきよ子も後を追うと遠方から一隻の客船が向かってきます。カイロに向かう娘夫婦が乗る客船です。


 一方、船上デッキからも娘夫婦が並んで灯火を見つめています。「あれがお父さんとお母さんの灯台」を確信した時、灯台から霧笛が届きます。霧笛とは灯台設備の一つで、風雨や霧で灯火の到達輝度が低下する場合、灯台の存在を船に知らせるために鳴らず信号音のことです。おそらく霧笛の連呼は、規則違反であったことでしょう。
 しかし娘婿夫婦にとっては、この霧笛が自分達への祝砲であることは明確です。「ボク、船長さんと掛け合ってくる」と言い残し娘婿は新婦をデッキに残し走り出します。

 

 灯台から響き渡る霧笛を浴びながら「お父さん、お母さん」を繰り返す娘の背後からほどなくして汽笛の連呼が始まります。灯台の祝砲に対する客船の返砲です。何度となく霧笛と汽笛を贈り合いながら、客船は大海の闇へと消えてゆくのでした。

 

ROOTS

 

 ROOTS(「ルーツ」)は、アメリカの黒人作家アレックス・ヘイリーの原作を元に制作された大河テレビドラマで1977年全米で(同年に日本でも)放映され大ヒットとなりました。出所や生い立ちを意味する「ルーツ」という言葉が日常用語となったのも、このドラマからです。


 黒人としてアメリカで暮らすアレックス・ヘイリーは、ある日「自分の出自を知りたい」と決意します。以後、12年の歳月をかけ彼はアフリカを起源とする自分の来歴を調べ上げ、執念で自分の祖先が1765年奴隷狩りによってアフリカ西海岸からアメリカに連れてこられた「クンタ・キンテ」であることを突き止めます。

 

 15歳のクンタ・キンテ(渡米後は「トビー」に強制改名)は、売買奴隷として南部の農場を転々とします。逃亡が失敗し足首を切り落とされる刑罰を受けるなど過酷な虐待にも屈することなくクンタ・キンテは奴隷ではなく故国の部族の一員としての誇りを忘れませんでした。その後、奴隷仲間のベルを妻として、キジーという長女を授かります。
 しかしキジーは若くして他の農場へ売却、そこで強姦されジョージ(チキン・ジョージ)を生みます。商才に長けたジョージは波乱の人生を過ごしますが、妻マチルダとの間に長男トム(トム・ハービー)が生まれます。このトムがアイリーンと結婚し、末娘シンシアが誕生、アレックス・ヘイリーに繋がるのです。

 その間、独立戦争や奴隷反乱、南北戦争、あるいは奴隷解放宣言後に出現した黒人差別運動、更には第一次大戦と一族はアメリ近現代史の荒波に翻弄され、数え切れない苦難に襲われます。


 ただしドラマは白人支配(悪)、黒人弱者(犠牲者)という単純なステレオタイプで一貫させず、白人社会は白人社会として黒人社会は黒人社会として、それぞれ葛藤や矛盾があったことを並行して描き、社会が善悪二元論に収まるほど単純ではないことを伝えてゆきます。

 

 そして大河ドラマのクライマックス(Roots2:Roots The Next Generations)です。

 

 アレックス・ヘイリーは並ではありません。彼はアメリカにおける一族の来歴解明に飽き足らず、アフリカにおける先祖の「ルーツ探し」まで乗り出します。調査の結果、クンタ・キンテは現在のガンビア(西アフリカ)北岸地域に存在する「ジュフレ」という村落の出身である可能性が高いことを突き止め、村に乗り込みます。


 「遠い縁者が来た」と村人はアレックス・ヘイリーを歓迎してくれますが、当然300年前のクンタ・キンテを知る者などおりません。過去の戸籍や住民票なども整備されていませんから調査は難航します。しかし村には「語り部」がおり、部族の遍歴を代々口伝えで継承していることを知ります。


 広場の一角、炎天の下で通訳を交えながら古老の語り部が神話時代から始まる部族の歴史を語り出します。二時間、三時間、語り部の物語は止むことがありません。アレックス・ヘイリーの気力も朦朧となりはじめた時、通訳の一言に衝撃を受けます。
 「ある日、木を切りに行ってクンタ・キンテはそのまま戻らなかった」、古老の口述を通訳がそう伝えたのでした。「この村」と「この部族」がアレックス・ヘイリーと繋がった一瞬でした。


 翌日、大いに満足したアレックス・ヘイリーは別れを惜しむ村民を後にして帰路につきます。桟橋からはしけに乗り移った時、彼は取り囲んだ村民の後方から走り寄る一人の青年に気がつきます。
 「キンテ、キンテ」と叫びながら手を振り、半分踊るように向かってくるその青年。アレックス・ヘイリーは何事かといぶかります。そして息を切らせながら青年は目の前ににじり寄り、アレックス・ヘイリーの胸元を指さしながら「キンテか」と尋ねます。
 「そうだよ。オレの祖先はクンタ・キンテだ」と状況が分らないまま応えたアレックス・ヘイリーは、続く青年の一言に愕然とします。
 青年は今度は自分を指さし、「オレもキンテだよ!」と言ったのです。

 この青年は何百年か前に生き別れた親戚だったのです。全てを理解したアレックス・ヘイリーは、その巨漢で細身の青年を思いっきり抱きしめ、号泣したのでした。

 

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 アレックス・ヘイリーはこの一作でピューリツァー賞を受賞しました。そのテレビ・ドラマ版は、アメリカだけで1億3千万人が視聴したとされます。彼自身がこの物語をファクト(史実)とフィクション(創作)を合わせた「ファクション」であると称すように「ルーツ」はドラマです。


 ですが事実に忠実であるかは余り問題ではありません。「喜びも悲しみも幾歳月」がそうであるように多くを感動させる芸術であることに意味があります。完成度が高いからこそ、黒人の物語でありながら、人種や民族を超越して涙を誘うのです。史実よりも芸術のほうが時間や地域を飛び越す普遍性があり、よほど人間味があると見ることもできるのです。

 

(社会部デスク)

韓国の「死に至る病」(1)

(1)消された過去


 軍用機や軍用車両には、各国独自のマーキング(国籍識別マーク)を施します。韓国空軍の国籍マークはアメリカ空軍のマークに類似し、中央に太極旗の赤青陰陽表彰をあしらったデザインとなっています。記者はかつて、このマークは北朝鮮軍の空軍マークであると誤解していました。原因は『慕情』という映画です。

 

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 慕情(Love Is a Many-Splendored thing)といえば、年配者であれば誰でも知っている往年の名画です。アメリカ人の従軍記者エリオットと香港の女医スーインとの悲恋を描いたこの映画は、エリオットの戦死が報道されたにもかかわらず、戦時郵便の遅配で、死後、スーインの元に毎日のようにエリオットからの恋文が「届く」という悲劇的なラストシーンでクライマックスを迎えます。失意のスーインが駆け上った香港市を見渡す丘(ビクトリアピーク)は一躍世界的な名所にもなりました。

 記者がこの映画を観たのは小学生であったと思います。映画の公開は1955年ですから、封切りを観たわけではなく、名画座か、テレビ放映であったはずなのですが、記憶が定かではありません。当時、ラブロマンスには何の関心も無く、専ら朝鮮戦争を舞台とする映画の端々に登場する軍用車両や小銃などを観察するという誠に不純な動機から映画を「見ていた」のでした。
 そこで「誤解」なのですが、エリオットが戦死するシーンです。従軍中突然、戦闘機が来襲し、空爆によってエリオットは斃れます。古い記憶なので少々曖昧ですが、確か戦闘機は、P.51で、機体には韓国空軍マークが描かれていました。
 アメリカ人ジャーナリストが同行する一群を国連軍(韓国軍)が空爆するはずはなく、アノ空軍マークは北朝鮮軍なのだ、とソノ時思い込んだのでした。それが誤解である、と知ったのは随分後のことです。

 この空襲シーンですが、何故か、今日見ることができるフィルムは全てカットされ、記憶を確かめる術がありません。しかし暫くの間、あのマークは北朝鮮軍だと信じていたのですから、問題のシーンはあったのだと思えます。

 そのような些細な誤解はほどなく記憶の奧底に埋もれてしまったのですが、1999年、AP通信がスクープした事件で再び「慕情」を思い出すことになりました。「老斤里(ノグンリ)事件」です。

 

老斤里(ノグンリ)事件


 朝鮮戦争の勃発時、不意を突かれた米韓軍は総崩れとなり大混乱となりました。優勢な北朝鮮軍の大攻勢に防衛ラインを死守できないと悟った一部米国部隊は、地域住民に安全な南部に避難するよう発令します。
 この指示に呼応した永同郡の村民500名が老斤里にある京釜線鉄橋に到達すると、突然米軍機の無差別爆撃が始まりました。人々はなす術もなくなぎ倒されてゆきます。生き残った者は鉄橋下の水路用トンネルに逃げ込んだのですが、米軍はトンネル出口に銃座を据え、執拗に一斉射撃を開始、婦女子を含む殆どが射殺され、死体の間で息を潜めていたわずかな生存者が救出されたのは空襲から3日後、地域を制圧した北朝鮮軍の「米軍は撤退しました。安心して出てきなさい」との呼びかけによるものでした。

 最近の資料に拠れば、似たような惨事は老斤里だけではないとされます。明白な戦争犯罪であり虐殺といってもいい事件です。一件は極秘扱いとなり、事件の負傷者や遺族は、補償はおろか、事実そのものの沈黙を強制されました。

 事が公となったのは、1994年事件の生存者が初めて手記を発表、この手記を元に1999年AP通信が米側資料等を発掘し世界中に報道したことによります。今思えば、エリオットが死んだのは老斤里だったのかもしれません。朝鮮戦争終結の2年後に「慕情」は、封切りとなっています。

 なぜ、このような事件が起きたのでしょうか。日本の敗戦とともに半島の南半分を統治した米軍は、韓国民の扱いに苦慮していました。韓国(朝鮮)は勿論、連合国ではありません。国土は大日本帝国編入されていましたから、独立国として参戦できる主権はなかったのです。
 例え国土が外国軍に占領されていたとしても、フランスのように本国政府のドイツ降伏(1940年)後も正規軍本体がイギリスに脱出、国内のレジスタンスと一体となり反抗を続けたというのであれば、戦勝国としての資格があったかもしれません。しかし韓国の抗日パルチザンには統一的主体はなく、それどころか連合国から見れば、1944年以降、徴兵制によって編成された韓国軍(朝鮮軍)は日本軍と共に英米と戦っているのですから、連合国の心証としては「敵(枢軸国)」に近いものがあったでしょう。

 韓半島南部を統治した米軍は、当初、朝鮮総督府の行政機構を活用して軍政を敷いたことからも、連合国は韓国を一旦は敗戦国と見做した、ともいえます。米軍としては韓国民は敵か味方を図りかねていました。

 朝鮮戦争が始まる数年前より済州島事件(4.3事件)のように李承晩政権に対する民衆蜂起が各地で発生していましたから、避難民とはいえ、戦局が不利な状況で敵性勢力が米軍本隊後方に進出するのは驚異です。
 1950年7月27日ウィイリアム・キーン現地軍師団長は、「戦闘地域を移動する全ての民間人を敵とみなし、発砲せよ」と各部隊に命令しました。この命令により老斤里他の惨劇が起こったのです。

 

 徴用工判決


 先月29日、韓国最高裁新日鉄住金に続き三菱重工にも元徴用工の賠償を命じました。すでに同様の訴訟は14件あり、被告となっている企業は80社に及びます。韓国政府機関は299の戦犯企業が現存する、とします。ここに至っては、最高裁としてはその全て、一切合切に賠償を乱発する他ないでしょう。

 しかし、韓国現代史の戦慄すべき悲劇は、むしろ日帝の植民地時代以降に発生しています。韓国市民としては怒髪天を衝く話でしょうが、客観的に現代韓国史を追えば、植民地解放後、韓半島流入したソ連軍による略奪や破壊、軍事政権(韓国政府)や北朝鮮軍、あるいは中国人民解放軍や米軍による人命や財産の損失は、植民地時代とは比べものになりません。

 その間、無数の戦争犯罪がありました。徴用工や慰安婦問題について、協定や合意による外交決着を反故にしてまで、徹底した糾弾を続ける韓国市民の意識は、日帝問題を片付け、引き続き日本以外の賠償請求へと突き進むのでしょうか。それとも市民意識は、「日本」のみを特別視し、それ以外の「問題」は無関心であり、忘却すらできるのでしょうか。
 もしそうだとすると、日韓関係の問題の本質はソコです。「なぜソウなのか」が掴めない限り、問題が不可逆的、最終的に片付くことはないでしょう。

(ソウル通信)

 

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立憲主義と統治行為:法律の話(3)

砂川事件

 沖縄普天間移設問題は解決の目処が立ちません。素人の私などは、米軍は沖縄本島の約15%にも及ぶ広大な領域を保有しているのですから、沖縄住民が居住する隣接地を避け、人里離れた米軍保有原野の真ん中に移設すればトラブルも少なかったのでは、などと邪推したくなるのですが、ソウ単純ではない何かしらの事情があるのでしょうか。
 米軍基地問題ですが、現在では施設の70%が沖縄に集中しているため、沖縄の問題と受け取られがちですが、戦後暫く基地は日本国中に散在し、新設や拡張に関し住民との紛争が各地で頻発していました。その中でも、在日米軍立川基地の拡張を巡る紛争(砂川事件)は、地域住民、労働者、学生をも巻き込む争議に拡大、更には米軍駐留の合憲性が問われる憲法論争にまで発展しました。


 昭和32年7月、在日米軍立川飛行場の拡張工事を行なうため特別調達庁(後の防衛施設庁)が測量を開始したところ、基地拡張に反対するデモ隊と衝突、一部が米軍基地の境界柵を壊し、立入り禁止域に侵入したとして、日米安保協定に付随する行政協定(後の日米地位協定)違反で7人が起訴されました。
 行政法違反ですので、道交法のスピード違反や信号無視のような単なる行政処分で終わると思われましたが、被告人は米軍が日本に駐留すること自体が戦力不保持を規定する憲法違反である、として行政協定の無効を主張し、一件は憲法論争となりました。
 この時、第一審(東京地方裁判所)は、「日本政府が米軍を指揮できる、できないは関係なく、米軍が国内に駐留する事実は『戦力保持』に相当し、違憲である」とし、「被告全員を無罪」としたので、日米政府は大慌てです。
 日本政府は即座に跳躍上告(高等裁判所を省略)し、舞台は最高裁判所に移ります。判決するためには、米軍駐留の合憲性を判断せねばならず、その判断とはとどのつまり日米安保条約が合憲か違憲かを決めなければならない、ということです。最高裁は追い込まれます。

 同年12月、最高裁はこの事件について判決ではなく、「意見」を表明します。「駐留米軍は、日本政府が指揮管理できる戦力ではないのだから、外国の軍隊は憲法が禁止する戦力とはいえない」と「考え方」を示しながらも、「日米安保条約のように高度な政治性を持つ条約に関しては、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」として合憲違憲判断を回避したのです。法学的に言えば、この時裁判所は、「統治行為論」を採用した、ということになります。
 統治行為により「裁判所は憲法判断をしない」となったため、「違憲」とした原判決(地方裁判所判決)は破棄され、裁判は地裁に差し戻され、被告は罰金2000円の有罪判決(行政処分)となりました。


 統治行為論

 統治行為論とは「国家統治の基本に関する高度な政治性を有する国家の行為については、法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても、これゆにえに司法審査の対象から除外するべき」とする理論のことで、国際的にも認められる法理です。
 しかし砂川事件は、(1)国家の行為に関する国政と裁判所の優劣、(2)条約と国内法の優劣、という二つの問題を社会に提起することになりました。

 (1)については明白です。三権分立は国会(立法)、内閣(行政)、裁判所(司法)を分立させ、相互に抑制・均衡させる国家システムのことですが、三権の中でも国会が優越することは当然です。三権は平等ではありません。国会だけが、その運営者(議員)を国民の選挙によって選出するからです。司法(裁判官や検事)や行政(省庁や地方自治体)は組織であり、組織としての意志決定は内部選抜で昇進した決定権者が行なうのに対し、国会は選挙により選ばれた国民の代表者が担っていますから、主権在民の原則からしても、国政の最終決定権は国会に帰属せねばなりません。

 統治行為論の根底には国民の代表者が下した国家行為は、裁判所が横やりを入れるような筋合いではない、との含意があります。砂川事件に関しては近年、アメリカ側の資料が発掘され当時の駐日大使が外務大臣に外交圧力をかけたなど純粋に法学的な判断とはいえないとの状況もあったのですが、「政府の判断について裁判所はとやかく言わない」との立場には道理があります。

 (2)については、法学的な争いがありますし、国によっても状況が異なります。国家や国民は、憲法、法律(民法や刑法など)、条約等の法規に従わなければなりませんが、それら規律の上下関係(優先順序)はどうなるのでしょうか。政府が締結した条約が国内法と矛盾するなどの状況はあり得る話です。
 日本では法規の優劣は、「憲法」→「条約」→「国内法」の順となると考えられています。その論拠は以下の憲法98条に拠ります。

憲法 第98条)
 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

 憲法が国家としての最高法規であるのですから、いかなるその他の法規(条約を含む)も(日本国が遵守するべき法規としては)、憲法に優越することはありえません。一方、98条1項は、違憲無効となるものとして「法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為」を列挙するのみで、ここに「条約」が入っていないことから、条約は法律と同格ではないと解釈でき、2項に条約遵守義務を併記しているところより、憲法に次ぐ地位を有すると考えられているのです。
 また1981年に日本も加入した「条約法に関するウィーン条約」では、「当事国は、国家として最も重要な法に違反する場合を除き、国内法を条約の義務を負わない理由としてはならない(同条約第27条、第46条)」と定め、条約が国内法に優越する原則は国際的な解釈となっています。

 ということで砂川事件は、日米政府が締結した条約は国内法に優越し、唯一、憲法違反である場合のみその効力を失効させることができるのですが、最高裁判所は統治理論により判示せず、違憲問題を棚上げとしながら行政法違反で結審させた、という構造となっていました。

韓国徴用工問題

 条約の効力に関して先月、韓国の最高裁判所の下した判決が日本で大問題となりました。「元徴用工の個人請求権は、日韓請求権協定に含まれない」との判断は、条約の有効性が問題となったとの点では砂川事件と似ています。
 ただし協定締結が憲法違反であるのかが争われたのではなく、個人の賠償請求権が認められるのかという民事訴訟であるため、砂川事件とは状況が異なります。とはいえ、日韓基本条約(1965年)は、国家間の紛争を解決するため「高度な政治性を有する国家の行為」に相当すると思え、韓国の裁判所が統治行為論を引き出しても良さそうですが、ソウはなりませんでした。
 最高裁判官は13名ですが、統治行為に言及した人は一人もいません。多数派の7名は賠償請求権の存否は問わず、日本企業の不法行為に対する慰謝料請求権は残っているという形で判断し、別の4名は異なる意見から請求権を認め、請求権を否定したのは2名だけでした。
 韓国憲法が条約を超越する立場は日本と同じですが、(韓国)憲法第6条には「条約及び一般に承認された国際法規は、国内法と同等の効力を有する」と規定され、国内法との優先順序は考慮する必要はありませんでした。

 各方面から今後の日韓関係を憂う声があがりました。当然です。日本の常識は韓国の非常識、韓国の常識は日本の非常識といった趣きです。日韓基本条約には、条約の解釈・行使に紛争が起こった場合の措置が記載され、最終的には国際司法裁判所(ICJ)に提訴する定めとなっています。
 素人の私などは、なまじ未消化物を残す外交合意は追わず、早々にICJに訴え、国際的な決着へと持ち込む方がいいように感じます。韓国の同意がなければ開廷しないのがICJの規則ですが、同意しない理由が韓国には求められますし、国際的な紛争として顕在化させ決着させねば、いつまでたっても「完全かつ最終的な解決」には至らない、と思えます。

 「法律は真理を解明するためにあるのではない。紛争を解決するためにあるのだ」が、法格言です。少なくとも日韓請求権協定が締結された時点では、両国は「紛争を解決する」との意志が合致したはずです。日本の立場としては解決済み事案について「アノ時の合意とは別の問題」との提起があったのですから、条約(協定)の本旨とその効力に照らして、韓国最高裁の判決の正当性を国際法廷でハッキリさせない限り、いつまで経っても「解決された」問題を蒸し返すことになりそうです。
 勿論、IJCの裁定は必ずしも日本有利となるとは限りません。どんな判断であったとしても国際法廷の結論に従うと決心することは勇気も必要です。


立憲主義

  さて、憲法です。安倍政権が憲法改正を推進していることは周知ですが、これに対し野党は立憲主義の原則から猛烈に反対しています。立憲主義とは何でしょうか。

 日本国憲法に以下のような一条があります。

憲法 第99条)
 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判管その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う

 この条文は、「誰が憲法を守る義務を負うか(憲法擁護義務)」を定めているのですが、注意したいのが、ここに「国民」が記述されていない、ということです。勿論、同じく憲法12条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と規定していますから、99条に国民が含まれないからといって「国民は憲法を守らなくてもいい」とはなりません。
 とはいえ国民にたいしては努力目標であるのに対し、99条記載の人達は義務ですから度合いが異なります。この99条が存在するため、日本国憲法立憲主義に立脚すると解釈されています。

 99条に記載される人々とは「国政を司る」人々、つまり国家権力を行使する人達を念頭に置いています。「民法の話」で少し触れたように、近代法は新興勢力(有力市民)が牽引して国王の絶対権力を縛る(制限する)ことを目的にスタートしました。
 例え裁判所が国王の執政を憲法違反と判じたとしても、「憲法違反なの。それじゃ、憲法を変えちゃおう」と国王の一存で憲法が好き勝手に改正されてしまえば意味がありません。そこで国家の基本方針たる憲法に国政運営者は平伏す(憲法が許す範囲で国政を治めねばならない=立憲主義)の原則が築かれました。この原則を「国家権力はライオン、憲法はライオンを閉じ込める檻」と表現する人もいます。

 つまり野党は、政府(国家権力)が率先して憲法改正を主導するのは立憲主義からして「オカシイ」と主張しているのです。真っ当な主張ですが、事は少々複雑な問題です。何故かと言えば、三権分立によって(憲法を含め)法律の制定改廃は、国会の権能であり、国会は国民の代表者たる国会議員が執るのですから、結局のところ憲法改正は国会の発議以外に道はないからです。

 もし安倍政権が自分の身勝手な憲法改正を押し通そうとしているのであれば、憲法99条違反。国民の意思を代理しているのであれば、間接民主制の正当な手続ということになるのです。
 法律や条約、条例と異なり、憲法改正だけは国民投票が求められます(憲法96条)。最後は私達の一票で「どうするか」を決めることになります。早ければ来年にも、その決心を求められるかもしれません。これはおそらく国政の重要決定を国民全員の直接投票で決する日本史上初の出来事です。憲法が直接一人一人の肌に触れる最初の機会でもあります。

 新憲法日本国憲法)は、戦後アメリカから押しつけられた憲法と酷評されます。実際、そうなのでしょう。しかし押しつけられた憲法には、欧米が市民革命を通じ紡いできた民主主義を健全に維持する制御装置も編み込まれています。統治行為論立憲主義も民主主義を制御する工夫に他なりません。誰が作った憲法であれ、民主主義の知恵まで否定する筋合いではありません。

 一方、憲法改正に国民がどういう選択をするかはともかく、ライオンを檻に閉じ込めるという近代憲法が育てた機能をしっかり維持できるかどうかは、檻の番人が国民であるという自覚なしに望めるものではないこともまた間違いありません。


(社会部デスク)

刑法と浪花節:法律の話(2)

非日常「文章」

 前回の民法に続いて、今回は刑法についてチョッと触れておきたいと思います。本題に入る前に下の文書を見てください。これはある刑事事件について、最高裁判所が下した判決文の一部です。文章を読む必要はありませんが、「原判決の確定した、、、」から始まる冒頭から文末の「主文のとおり判決する」で結ばれるこの文章の中で、読点つまり「。」がいくつあるでしょうか。

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 答えは一つです。つまりこの文章は一文だということです。文字を数えると533字あります。原稿用紙1.5枚分がワン・センテンスです。このように長い文章は他ではみたことがありません。とても読みにくい文章です。

 

 そもそも日本語は英語と異なり術語(~である。~ではない。)が文末に来るという特質があり、最後の最後で前段主語の結論が正反対となるため長文には不向きな言語といわれています。肯定しているのか否定しているのか分らないまま、原稿用紙一枚以上の前段を読み進まねばならないのはストレスですし、そもそも前段の修飾が余りに多いと、どれが本当の主語か分らなくなる危険もあります。


 このように長い文書は決して気楽に読みたいとは思いません。ですが刑法に限らず、民法においても裁判所の「判決文」は概ね「長い文章」が職人的なスタイルとなっています。偏屈な私などは、職人法律家が門外漢に簡単に理解できないよう「ワザと長くしているのではないか」と疑いたくなるような非日常文章です。


 ソノ真偽はともかく、明治に制定された特殊な法律の専門用語と読みづらい長文が、法律の世界と素人を隔絶する一因となっているとは言えそうです。実社会と密接に関係する民法でも疎遠ですが、更に刑法となればなおさら日常生活とは無縁な存在です。

 


 刑法とは刑事事件が発生した時に適用される法典ですから、そもそも自発的に近づく筋合いではありません。刑法の条文適用を判定する裁判も一件の怨恨や報復を国家権力が代行する他人事ですから、自分に関係の無い判決文など何の興味もありません。それでなくとも分かりにくく、読みにくい判決文ですから、何の関心もないのも当然です。

 同様に六法全書にまとめられている法律の条文も、法律の専門家以外は、よほどの物好きでなければ、積極的に読みたい書物では、ないハズです。電話帳を読むのと同じような、無味乾燥な情報の羅列で、味もそっけも無い、面白みのない文章です。

 消えた刑法200条

 さて、その六法全書ですが、刑法典の第200条を調べると、「削除」となっています。この刑法200条が削除されたのには、チョッとした物語がありました。

 もともとココには、

 

 尊属殺人「自己又は配偶者の直系尊属を殺したる者は死刑又は無期懲役に処す」
 

 と、定められていました。


 直系尊属というのは、直系卑属に対する法律用語で、自分の両親や両親の両親、つまりおじいさん、おばあさんのことです。
 直系卑属とは、自分の子供、孫、といったヒト達のこととなります。
 尊属つまり「尊敬するべきヒト達」、卑属つまり「卑しいヒト達」、という言葉から分かるように、この専門用語は、「親や先祖を敬うのがヒトの道」と教える儒教に影響された日本の伝統的価値観が法律に反映された用語です。


 日本の刑法が制定されたのは明治40年、今から111年前になるのですが、儒教的な当事の日本の価値観が各所にしみこんでいます。

 儒教精神に基づき、同じ殺人でも、親を殺害した場合は、特別に重い刑罰を課す規定が刑法200条「尊属殺人」として定められていました。条文通りに解釈すれば、「親を殺した場合は、死刑か無期懲役」しかありえないのです。

 ところが、この尊属殺人という儒教的社会規律の根幹を揺るがす、いたましい事件が起こりました。昭和43年のことです。

 この年、29歳になる一人の女性が実の父親を殺害した、と自首してきました。女性は逮捕され、尊属殺人の罪で、殺害の動機、背景が調べられました。すると、驚くべき事実が明らかとなったのです。

 女性は、14歳の時から父親に性的虐待を継続的に受け、近親相姦を強制され続けた結果、親子の間であるにも関らず、5人の子供を生み、他に6人を妊娠中絶していました。生まれた5人の子供の内、2人は幼い内に死んでしまいました。

 女性は、仕事をしており、外出も自由でしたが、もし自分がその場から逃げ出すと、同居している妹に悲劇が及ぶことを恐れ、家を出ることもできませんでした。
 ところが、女性が29歳となったとき、職場で運命を大きく変える出来事が訪れました。女性は、「結婚したい」という男性に出会ったのです。相思相愛でした。

 女性は、父親に自分の結婚を懇願しました。話を聞いた父親は激怒し、その日から女性を家に監禁、ことさら女性を弄んだのです。そして、監禁されてから10日目、ついに女性は思い余って、この獣のような父親を絞め殺してしまったのです。

 女性の弁護士は勿論、裁判官も検察さえも、女性に同情しました。なんとかできないか。しかし、刑法200条が定める法定刑は、死刑か無期懲役しかありません。

 裁判は、地裁、高裁、最高裁と審級し、昭和48年4月4日、事件から5年目にして最高裁判所の判決が下りました。この時、裁判所は、裁判史上に残る画期的な判決を女性に言い渡しました。

 「法律が間違っている。」
 これが最高裁が下した判断だったのです。

 尊属殺人が日本の精神風土を体現するものであっても、その量刑が「死刑か無期懲役」しか存在しないことは、立法目的を達成するために許容される量刑の限度をはるかに逸脱しており、普通殺人を規定する刑法199条の法定刑に較べて、著しく不合理な差別的扱いをするものだ、として、「法の下の平等」を定める憲法14条に違反、つまり憲法違反であるから無効である、と最高裁は、女性ではなく刑法200条を処断したのです。

 この判決は、日本国憲法、つまり新憲法が制定されてから、最高裁判所が初めて発動した違憲立法審査権の行使でした。違憲立法審査権などというとどうも堅苦しいのですが、その実は、浪花節であり、誠に人間くさいドラマです。

 結局のところ、裁判所は、女性に懲役2年6ヶ月、執行猶予3年を言い渡し、女性が服役することはありませんでした。

 三権分立により、法律の制定、改廃は、国会の権能ですので、最高裁違憲が出ても、刑法200条はすぐには削除されず、最終的に200条が削除されたのは、判決から22年後、平成7年になってからでしたが、最高裁違憲判決が出てからというもの、もはや検察は200条を適用しなくなりました。

 刑法200条に書かれている「削除」の二文字には、このような物語があったのです。

 上記のワン・センテンスがとても長い判決文ですが、実は、この尊属殺人の時の判決文の一部です。そう思うと、チョッと判決文を読みたくなりませんか(「尊属殺人」、「違憲判決」、「判決文」などのキーワードで検索すれば、インターネットで簡単に探すことができます)。

 味気ない、無機質な条文の塊である法典や判決文も、ひとつひとつの大半が、刑法200条と同様に、人類の長い歴史が積み重ねてきた、無数の人間ドラマ、悲劇、涙、時には流血により書き加えられてきたものです。

 そう思うと、六法全書にも少し親近感がわいてくるかもしれません。

(社会部デスク)

民法と資本主義:法律の話(1)

200年続く法律

 朝起きて、会社や学校に行くまでに私達は既に何十という法律(契約)行為を行なっています。NHKのニュースを見るのはNHK受信契約によりますし、電気もガスも契約。電車に乗るのもコンビニで朝食のパンを買うのも全て契約に基づく法律行為を行なった、ということになります。そもそも学校や会社に行くこと自体が法律に基づいています。
 誰も意識することはないでしょうが、法律学的な解釈からすれば、「パンを買う」という行為は、「意思主義(契約書という要式を必要としない)による売買契約(民法が定める権利移転の典型13種契約の一つ)を成立させた」ということになるのです。

 法律が社会生活に不可欠であることは言うまでもありません。そして法を執行遵守するために行政府(地方自治体や政府などの機関)が存在し機能せねばならないのは当然です。人類が文明を形作った太古から「法(おきて)」とその「執行管理」は自然発生するのですが、現代的な法体系が整備されたのは近代ヨーロッパの市民革命以後のことです。この時成立した近代法と社会システムの概念や価値感が現在でも引き継がれています。

 日本で民法が制定されたのは明治29年(1898年)、刑法は明治40年(1907年)です。市民革命後整備されたヨーロッパ法を輸入して制定されました。その大系は現在でも概ね同じで、今日、誰かが法令違反を犯せば、明治に作られた法律で裁かれることとなります。この状況は日本に限らず欧米でも大差ありません。21世紀の今日でも世界は、200年前、市民革命当時に成立した法の概念・秩序によって規律・拘束されると言えます。


 さて、近代の法律大系は大きく公法と私法に分かれます。公法は刑法や憲法のように国家と国民、国家権力と市民(私人)との関係を規律する法律で、私法とは民法や労働法のように市民と市民、私人間を規律する法律のことです。
 このうち、公法は傷害事件(刑事事件)に巻き込まれたとか、国道を通すため私有地が行政代執行で収用されるなど、よほど特殊な事態が発生しない限りお世話になることはないのですが、私法は日常の市民生活の隅々に結び付いています。冒頭にお話ししました「朝起きてから出勤するまでに繰り返される法律行為」は、私法、とりわけ民法が定める行為がほとんどとなります。

 

物権と債権

 「民法を制する者、司法試験を制する」という俗言がありますが、弁護士になろうとすれば「民法のマスターがヤマだ」という意味で、条文知識は元より、民法を形成する法理(原理)の理解が不可欠となります。
 民法は全5編から構成され、第1~3編までが財産法、第3~4編が家族法に大別され、法体系のロジックとしての理解が必要となるのは財産法の方です。そして、そのロジックとは何かといえば、財産権とは「物権」と「債権」から構成され規律されるという、市民革命によって確立された財産権行使を秩序付ける法律的論理概念(法理)のことを意味します。

 財産法とは、要するに「個々の財産が誰に帰属するか」を明確とし、「財産トラブルをどう解決するか」の定めです。民法典の条文の殆どが、この問題に裂かれています。「市民と市民の紛争」、「巷でのゴタゴタ」は財産権(金銭もしくは金銭的価値のあるもの)に関連するものがとても多いことを想えば当然かもしれません。家族法をともかくとすれば、民法の機能とは財産権の紛争解決ないし紛争回避にあると言えます。

 誰が物権と債権という法概念を考えついたかは知りませんが、その発明は天才の所業に違いありません。財産権は物権と債権に類別され、必ずこのどちらかに帰属します。物権とは「所定の物(権利)を直接(つまり他人の行為を介することなく)支配する権利」のことで代表的な物権は、「所有権」です。債権とは「財産に関して、ある人が他のある人に対して、特定の行為を請求しうる権利」のことで、代表的な債権は「借金(金銭消費貸借債権・債務)」です。特に「所有権」という概念秩序が確立したことは、現代社会を運命づけるほど大きな出来事でした。


物権は債権を破る

 「物権は債権を破る」という法格言がありますが、法律の理論上、物権は債権に優先される強力な権利と位置づけられ、物権(例えば所有権)保有者は無条件に誰にでも権利を主張できるのに対し、債権は契約関係にある特定の個人にしか主張できません。
 ですのでアパート賃貸契約を結んでいても、賃貸居住権利は債権でしかなく、もしアパート所有者がアパートを第三者に売却(物権譲渡)してしまえば、債権者は物権者(物権新所有者)に抗えず、もし明渡し(退去)を要請されると、転居する他ないのが原則です(実際は借地借家法など特別法により、一定の条件範囲で賃借人は保護される)。

 少し注意したいのが、物権は「物件」ではない、債権は「債券」ではない、ということです。物件は不動産物件のように有体物となりますが、物権は権利であって常に姿形があるとは限りません。民法が定める抵当権という物権は、債務不履行が起こった場合に行使できる権利というだけで物体として存在しているわけではありません。
 国債や株式証券などという有価証券(債券)は債権の一種ですが、債券とは目に見えるように権利義務を紙にしみこませた約束証書というだけで、口約束でも債権は成立します。


人工的権利「時効」

 民法は時効という制度を設けています。財産権も権利者が行使しないと権利を失うという制度です。例え他人の土地であっても一定期間平穏無事(誰からも立ち退きを請求されず)に占拠を続けると本当に自分の所有地(真の所有者)となります。これは取得時効という制度ですが、消滅時効という制度もあります。他人にお金を貸しても一定期間「返せ」と言わずに放置すると、返還請求権を失うという制度です。

 この取得時効、消滅時効ですが民法の法理上、所有権には取得時効しかありません。一方、債権は消滅時効だけであるのが原則です。貸してもいないお金を「返せ、返せ」と言い続け、一定期間相手方から「借りた覚えはない」と反論されなかったからといっても「債権の取得時効」などはありえません。
 どうしてソウなるのかが少々不思議です。しかし疑問を抱いても無意味です。物権債権概念を秩序づけるために近代民法が人工的にそのようなシステムとしたからです。外国語を学ぶためには、その言語の文法を習得する必要があります。文法は丸覚えする他なく、なぜ「ソノように動詞は変化するのか」などと考えても意味がないのと同様に、法律も文法に相当する骨格を理解せねばならず、法律の資格試験ではその理解がヤマとなり、民法はことさらヤマが険しい、ということです。

 民法は、「これはオレのものだ」とか「私の権利だ」とか合法的に主張できるものは、その人が持つ物権もしくは債権に限定されると定めています。海洋を自由に泳ぐ魚は誰の物でもないのですが、釣り上げた魚は、確保し占有した時点で釣り人に魚の所有権が発生する(原始取得物権)と規定するなど、社会現象の一切合切を物権債権で秩序づけ、行政(司法)がその秩序(権利)を守ってくれます。
 合法的に主張できる権利でなければなりません。違法行為から発生する権利、例えば麻薬密売による代金受け取り権利や裏口入学の斡旋料債権などは無効(当初から法律行為は発生していない)となり、「カネを払ったのに、裏口入学できなかった」と裁判所に訴えても法律は保護してくれないのです。


財産権の紛争は三種類だけ

 また物権債権に関連する義務権利で、起こりうる紛争のタイプも民法は定義づけています。簡単に整理してしまえば、財産権に関連するトラブルは、「債務不履行」、「危険負担」、「担保責任」のいずれかに起因する、ということになります。極論すれば、(家族法関連以外)社会生活のトラブルで民事訴訟として法律が解決してくれる対象は、物権もしくは債権に関する権利義務であり、その発生原因が債務不履行、危険負担、担保責任のどれかに属する事案のみということになります。


 債務不履行とは契約違反のことで、「カネを払ったのに商品が届かない」、「注文した商品と別の商品が届いた」など法律行為(契約内容)が契約の本旨に沿って履行されない状況です。財産権のトラブルの大半はこれです。
 債務不履行は債務者に帰責(落ち度)があるトラブルですが、債務者に責任がない紛争もあり得ます。例えば、家を買って代金を払ったが、売主が家を明渡すまでに大地震で倒壊してしまった、などの事例です。この場合は民法危険負担の定めによって解決します。
 売主にとって予想外のトラブルもあり得ます。これまで何の問題もなく使用してきた自分の土地を売却したところ、一部分だけ他人の地所が含まれていた、などです。この場合は担保責任の規定が適用されます。

 もし家を買っておカネは支払ったが、家の引き渡し(例えば、家の鍵をもらう)前に地震で倒壊した場合、どうなるでしょうか。論理的に考えれば、買主は土地代金だけを支払い、倒壊し使用不可能となった家屋代金は売主から返してもらうなど、解決法はいくつも考えら得ます。
 しかし近代民法は、このような状況が発生した場合、危険負担の法理により危険は買主が負担する、つまり売主は一銭も返還する必要は無い、と定めています。
 銀行から長期間のローン契約を結び、ようやく手に入れたマイホームが入居までに廃墟となれば、これほどの悲劇はありません。現実問題としては、このようなリスクを回避するため売買契約上に「物件の引き渡しと共に所有権が移転する」との条項を加え、契約上の権利として買主を保護するのですが、そもそもなぜ民法が危険負担を買主に負わせたかといえば、市民革命後、民法が形成された当時、「家を手放すほうが弱者であった」との事情が関係していた、といわれています。
 市民向けの銀行ローンなどが存在しなかった当時、不動産を購入するのは資金を持つ有産階級であり、家を手放す窮民は保護される必要があったのです。もはやこのような規定は適用力なく、「買主の危険負担」は、「売主の危険負担」もしくは「新しい紛争解決の定め」に変更されてもいいように感じますが、200年も前に制定された民法大系を今も堅持するのは、物権債権を支柱とする法秩序とその結果として成立する社会経済秩序がすでに岩盤として固まっているからと思えます。これを呪縛といってもいいかもしれません。


ブルジョワ民法

 人間が社会生活を営むようになってから私人間のトラブルは無数に発生したことでしょう。現在の民法には1044の条文が存在しますが、過去に発生したトラブルの一つ一つが1000条を積み上げたとも言えます。
 物権(所有権)や債権といった概念は、市民革命の渦中から生まれ、民法として大系付けられ、市民の常識として定着してゆきます。市民革命といえば、清教徒革命や名誉革命フランス革命などに代表される一連の近代史における転機ですが、何が転換したかといえば、王制から貴族制へ、貴族制からブルジョワジー(有産階級)政治へ移行した、ということです。

 転換は絶対王制に対する貴族の抵抗として始まりました。絶対王制は王権神授説に支えられており、国王が国政を執る権利は神から与えられ、国土も人民も国王支配に服するというのが当時の社会常識でした。しかし産業革命後、私有財産を蓄積してきた有力貴族や有産階級にとっては、いくら儲けても、「国王の財産に帰属」では都合が悪く、王権は不都合な存在です。これが市民革命を誘発させました。
 政治参加は革命のお題目でしたが、その背後に「所有権は神聖不可侵」つまり所有権絶対私有財産の完全保護を成立させるとのブルジョワジーの利権が関係していたことは明白です。ブルジョワジー政治は、法令により財産権の概念を築き、国家権力による保証を確保し、財産法(民法)の施行により市民の常識も一変してゆきます。

 明治に輸入された日本民法も基本的に当時の財産法を踏襲、「所有権の絶対」思想を継承していますし、「財産権の根底に所有権がある」という考え方は、現在の欧米諸国の基本理念と同一です。
 所有権を根底とする財産権システムとは、とどのつまり資本主義社会に他なりません。日本が市場原理に基づく資本主義国家であることは言うまでもありませんが、「なぜソウか」と言えば、所有権絶対を柱とする民法を社会法典としているから、です。

普遍的価値観を共有する国

 日本を含め西側諸国は「民主主義、法の支配など普遍的価値観を共有する国」というフレーズで団結を強調することがあります。この場合、とかく民主主義(自由選挙や政党制)に視線が向きがちですが、法の支配による普遍的価値観には民法が保証する資本主義との意味合いを随伴しています。これが欠けるといかに民主国家であっても価値観を共有する国とはなりません。

 王制から貴族制へ、貴族制からブルジョワジー(有産階級)政治へと変転してくれば、続いて全市民参加の経済体制と繋がってもいいように思われます。実際ソウなったのですが、少々極端が過ぎたかもしれません。社会主義がこれを受け継いだからです。財産権全てを国家独占として、偏在なく平等に市民に分配するという財産制の急変に市民は順応できませんでした。この結果、財産権制度に関しては、ブルジョワジー政治の民法を使い続けることになりました。

 社会主義思想が生まれた時、有産階級がいかほど危機感を感じたかは想像に難くありません。資産の全てが政府に没収される、考えただけでも鳥肌が立ったことでしょう。その拒否反応も苛烈でしたが、いかに理想が高くとも、実際に市民が適応できなければ意味がありません。社会主義国家は、強圧によって反対勢力を鎮圧できたかもしれませんが、結局のところ市民の生産性と結び付くことができず、自壊しました。

ベーシックインカムと所有権

 そこで思いつくのですが、今、議論されるベーシックインカムのことです。事によるとベーシックインカムが、市民革命民法の次のステップとなるかもしれません。所有権絶対を維持しながら、財産権の均等分配を実現する可能性があります。勿論、ベーシックインカムが国民経済の生産性を見込むことなく実施されれば、社会が衰退することは社会主義と同じです。
 ですが、社会主義失敗の轍を、ベーシックインカム実現の糧とする余地はあると思えますし、資本主義のみが唯一絶対の普遍的価値と決まっているわけでもないはずです。

 とはいえ、簡単なことではありません。ベーシックインカムを考える場合には、立ちはだかる岩盤といかに共生しながら生産性を確保し、円滑に社会適用させるかの見通しを立てねばなりません。その作業に着手するには、概念として所有権に匹敵する○○権という社会規範を生み出すことが求められるように思われます。
 社会主義の轍は、資本主義の論理的支柱である所有権とベーシックインカム社会を成り立たせる○○権の協調社会を喝破できるかに左右する、と諭しているように感じます。

 所有権を半減するだけでもこの作業は、社会常識を一変させるほどの大仕事になるに違いありません。

 

(社会部デスク)

平成の世相

 

 

 セントラルリーグの優勝チームが決まると「今年も終盤」を感ずる。来年には年号が変わるので「平成も終盤」ということになる。日本にとって平成の30年間とはどんな時代であっただろうか。学術的な平成の位置づけについては専門家に任すとして、平成に暮らした小市民の回想をいくつか記録しておこう。


国中が発狂したバブル時代 

 Aさんの追想である。国内大手企業の子会社(広告会社)に勤務するAさんは、いつものように親会社に営業に出かけた。世はまさに国全体がバブル景気に浮かれていた最中である。営業といってもグループ会社提案の広告企画はほぼ全てソノママ受注となっていたので、気楽なものである。しかしその日に限っては少々様相が異なった。

 

 ひとしきり企画趣旨の説明を聞き、1000万円の見積書を受け取った本社担当者の眉が曇った。「チョッと予算に合わないんです」と零す担当者が続けた一言にAさんは仰天する。


 「この企画のままでいいと思うのですが、コレ、3000万円になりませんか」

 

 「予算に合わない」とは「値段が安すぎる」ということだったのである。その場で見積額を1000万円から3000万に修正し、無事「受注」となったのだった。


 アノ時、流行病のような熱病に感染し、日本国中で金銭感覚が狂った。不動産価格は急騰し、非常識なまでに値上がりした「持ち家」に、多くが家を諦めた。代わって自動車や趣味、付き合いに大金を使うようになる。恋愛にもカネがかかった。

 

 それでも日本経済は絶好調、仕事もカネも、ロマンスも何の心配もない。永遠に続く、と思われた春を謳歌した。しかしソノ非現実的な熱病が、どれほど社会良識を歪めたのだろうか、と想う。

 


セクハラって何?

 初めて日本でセクハラという用語が使われたのは1986年のようであるが、「セクハラ」が社会に広く認知されたのは平成に入ってからである。平成前期においては、依然として昭和の感覚が残り、「女子社員」に対して、今では大問題となるような行為がまかり通っていた。

 当時でも女性の尻を叩けば問題となったが、親が許される範囲(例えば、肩を叩く程度)は、「普通」であったし、女子社員の上司は、適齢期になった部下の結婚相手を紹介することは任務の一つと考えられた。

 

 それでもセクハラの問題意識が世界的に拡大すると企業としても制度的な対策が必要となる。

 そのような状勢を受け、某上場企業本社総務部に勤務するB子さんも上司C部長からセクハラ対策を整えるよう指示をうけた。本社勤務社員約2000人の半数が女子社員である。プロジェクトチームを編成、「女性の権利をどうやって守るか」を検討した結果、B子さんが出した結論が、「セクハラシールを全女子社員に配布する」というものだった。

 

 5センチ四方のセクハラシールは、もしセクハラがあった場合、行為者の机にそれとなく貼付け、本人に自戒を求めるために作成され、「シールを配った」ことが周知されれば、セクハラが抑制されるであろうことを期待したのである。

 

 シールは連休前の金曜日、全ての女子社員に配られたが、連休が明け、出社したB子さんは、社内の異変に気がついた。事務所の片隅に人だかりができているのである。

 「何事か」をいぶかったB子さんが、人だかりに押し入るとソコは原型も判別困難なほど無数のセクハラシールが幾重にも張り付いたC部長の机があった。

 

 別の話もある。従業員50人程の中小企業総務部に勤めるD子さんの話である。この会社の創業社長はワンマンで知られ、女癖が悪いことでも有名だった。狭い社屋であるが社長室のみが個室で、室内には社長と派遣社員である女性秘書が配置されたが、派遣社員は社長のセクハラをD子さんに訴え、三ヶ月ももたず次々に辞めてゆく。

 

 ある朝出勤したD子さんは、派遣から間もない秘書が突然辞めたことを知った。「またか」の話であるが、この日はチョットした騒ぎとなった。置き土産に秘書は、社長のパソコンにBIOSのパスワードを仕掛けて行ったのである。

 Windowsのログインパスワードであれば何とかなるかもしれぬが、BIOSにパスワードを設定されてしまうとハードディスクの情報は諦めるほかない。社内は騒然とするが、D子さんはピンときた。

 

 「チョッと社長スミマセン」と言い、頭に浮かんだパスワードを入力すると、正解だった。そのパスワードとは、「SEKUHARA」であったのだ。

 データの放棄は回避できたが、社内にはBIOSパスワードの設定解除・変更できる者はおらず、暫く社長はパソコンを使うため毎回、SEKUHARAを入力しなければならなかった。


ビジネスはタバコから

 今では想像もつかないが、かつて人々は喫煙に関し相当寛大だった。路線バスや鉄道、タクシーの座席には灰皿が用意され、喫煙は自由だった。平成に入っても一時期まで旅客機内の喫煙も認められていた(ANAJALが機内の全面禁煙に乗り出したのは平成11年である)。

 事務所で「喫煙しながら働く」はほとんど日常の風景で、役所などでも換気の悪い部屋で公務員がスモッグのようにモウモウとした紫煙の中で仕事するのは当たり前であるだけではなく、机に置かれた巨大な灰皿に吸い殻が山積みとなっているなどは、「仕事に精を出している」とすら感ぜられるほどであった。

 

 おそらく当時の男性社員の喫煙者はほぼ100%であったのではなかろうか。商談の第一歩はタバコから始まるというビジネススタイルがあったからである。応接室のテーブルには来客用の灰皿とタバコが準備されていた。来客者に「まあ一本」とタバコを勧め、備え置きのライターで着火、自らも一本くゆらせながら、おもむろに商談を始める、というのがお決まりのスタイルであったのだ。

 この時はタバコが嫌いな人もスタイルに付き合ったはずである。

 

 平成も中盤となるとさすがに副流煙など煙害が広く知れ渡り、応接室タバコは撤去されたが、「まあ一本」スタイルが出来なくなり、商談導入の間が抜けるので多くの企業がタバコに代わってあめ玉を置いた。「まあ一本」の代わりに「まあ一個」となったのだが、アメを舐めながらの商談も定着せず、やがてあめ玉も撤去となった。

 

 韓国は今では日本以上喫煙の制限が厳しいが、15年ほど前までは、喫煙者の肩身が狭くなった日本からすれば、まだまだタバコに寛大であった。その頃、韓国に出張したEさん(50代)の話である。

 

 ソウルからは離れた地方都市に出張したEさん。現地の大衆食堂に入った。大勢がタバコを吸っている。愛煙家のEさんも安心して一本火をつけたが、テーブルに灰皿がない。見るとどのテーブルにも灰皿は見当たらない。灰をどうするのかと観察していると皆、床に直接落としていた。吸い終われば、火の着いた吸い殻をそのまま床にポイ捨てし、靴で踏んづけて火を消すのである。

 その時、Eさんはハッとした。「かつて日本もソウだった」のである。

 

 Eさんが小学生の頃(昭和30年代)、多くの大衆食堂は壁の側面と床がタイル貼りであった。客は灰も吸い殻も床に落とし、足で踏んづけて火を消した。店員は店が看板となると、床に散乱した吸い殻を箒で履き掃除した。

 その光景を韓国の地方都市で思い出したのである。

 

 タバコが健康に有害であることは十分分っている。それでも何も気にすることなく、どこでも自由にタバコが吸えた、靴で踏んづけて火を消した、「二度と来ることのない」アノ時代をほんの一刻懐かしく嘆美したEさんであった。


社是と気合い

 今では流行らなくなったが以前は、どの会社でも社是というものがあった。多くの会社が、毎朝「朝礼」を実施し、社員全員で社是を斉唱、気合いを注入した。

 以下は記者の心に残る社是のいくつかである。

 


・神田にあった中堅会社の応接室には社長直筆の社是が掲げてあったが、そこにはこう書かれていた。

 

     「怒るな。仕事しろ。」

 

・赤阪に事務所があったとき、隣の会社から社是を読み上げる社員の雄叫びが毎日聞こえてきた。斉唱ではなく、どうやら成績の悪い社員の懲罰として「雄叫び」が義務付けられているようである。日によって3人4人、多いときは10人が雄叫ぶ。

 

    「やります、がんばります、達成します」

 

・中堅証券会社社員から聞いた話である。この会社では社是の数が半端ではなく、毎朝50程の社是を全社員で斉唱する。社是といっても「おはようございます」、「ありがとうございました」など挨拶会話も発声練習を兼ねて斉唱するのだとのことであるが、その30番目だか、40番目だかで、以下を全員でこれまた「雄叫ぶ」のだという。

 

    「さすが社長ですね」

 

 おそらく当時は、営業マンが取引先で「さすが社長ですね」を連呼して契約をとってきたのであろう。昭和・平成の社員は真面目である。

 


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 日本の近代史で、平成ほど平和で豊かだった時代はない。世情や国際情勢に振り回され人々は右往左往し、ある時は浮かれ、ある時は沈みながらも世界の中で特段、日本は総じて幸せな時期を過ごせた。

 今年も残り三ヶ月。ソノ平成も最後の年末が近づく。

 

(社会部デスク)

「進化」という摩訶不思議な動力(1)

滅亡回避への道


 前回の社説に少し関係する話である。LGBTは、人間という「種」を存続継承する遺伝子に組み込まれた「進化の動力」からすれば、すこぶる真っ当な現象であり、何かしらの外因により男女いずれかの性が死滅するような非常事態が発生した時、同性婚による子孫継承へとシフトする安全装置なのだ、とした。

 

 安全装置が機能するとき、突然異変という進化がおこる。地球が誕生したのは約46億年前、最初に「生命」が生まれたのが約38億年前とされる。生まれたばかりの原始的な生命は、海の中で合成されたアミノ酸、塩基、糖などの有機物であった。その生命がやがて単細胞を生み、更には多細胞、無性生殖から有性生殖へと進化を続ける。

 

 言うまでもなく人間も進化の産物である。「進化を起こす」という動力は、生命体の誕生とともに始動し、おそらくは現在でも機能している。なぜ生命体の誕生とともにそのような動力が備わったのかは形而上学的な話で、人間の英知を動員しても解明できるものではないだろう。しかし「何故進化がおこるのか」については、進化は「生存競争を有利とする」、「環境変化に呼応し、適者生存力を増大する」方向に進むことから、生命体や種の存続を維持する、つまり滅亡を回避するために起動する、としてもいいだろう。

 

 アミノ酸のような原始的な生命体に意識や意志があるとは考えにくい。にもかかわらず有機物を出発点として生物は進化を進めてゆくのであるから、進化の動力(スイッチ)は、本来、生物が持つ意識や意志とは無関係に「動く」ことは間違いない。しかもそれが動くベクトルは、環境に適用し、生存競争を有利とするため「強く」、「早く」という合理的方向へ「動く」のである。


 一方、特定の種や個体の意識・意志と関連すると思われる進化もある。進化を同種進化新種進化に分けて考えれば、同種進化の中には明確に個体の意識が関係していると思われる進化がある。同種進化とは特定の種の一部形体を変化させる進化であり、異種進化とは在来種とは異なる新種の生物を産む進化である。生命体は進化動力のスイッチを二つもっている、といえる。

 

 進化本来の任務を考えれば、地球上に「特定の種を存続させる」ことよりも種の種別は問わずともかく「何かしらの生命体が存続する」ほうが優先であると考えられるから、進化の本流は新種進化、亜流が同種進化の関係となるだろう。

 

同種進化と競争原理

 

 海から陸へと生物が進出した時、海中の三次元(立体)生活から、陸上の二次元(平面)生活となった。原始的な四つ足爬虫類が、雲を眺めながら、「空を飛べたら」いかほど生活が楽か、と考える。進化はやがて始祖鳥を誕生させる。始祖鳥の誕生は新種進化となる。このような場合は、新種進化でも在来種の意識が関係する進化である。

 

 地域によって人の目や皮膚の色が異なるのは、地域環境に適合させた進化の結果であり、人間という特定の種の範囲内で起る同種進化である。この場合は、「肌を黒くしたい」などと意識したとは考えにくく、意識とは無関係な同種進化が起ったものと考えられる。
 太陽光の強い地域で皮膚の色が黒くなるのは、皮膚癌から体を保護するためとされる。天然色素メラニンは太陽の直射日光から皮膚を保護する機能があるが、メラニンが多いほど肌は黒くなる。人類がそのカラクリを知るのはごく最近であるが、進化は人間の知識や意志とは無関係に一定の科学的合理性の元に動く。

 

 新種進化、同種進化共に在来種の意識に関係する、しない、形態がありうるが、有性生物以降は同種進化の中に特徴的な意識進化が見られる。その多くは、進化の原則としては一見不合理と思える進化である。

 

 雄のヘラジカは最大2メーターにも達する巨大な角を持つが、このように不必要に大きな角は生活には不便でしかない。なぜ生活の障害となる進化が起るのかについて、専門家は角が大きければ、大きいほど雌にモテるからだとする。雌と子孫を残す機会を増やすため進化が起るのであるから、一見不合理な進化も種の存続継承と関係する。このような進化は、メラニン進化と異なり、「角を大きくしたい」という個体の意志が関係している。

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 人間の体毛もその類例である。人間ほど体毛が少ない動物はいない。体の殆どは、直接皮膚が露出している。人間がサルから進化したのであれば、サル並に体毛が体を包んでいてもおかしくはない。防寒や外傷を避けるには厚い体毛のほうが有利である。にもかかわらず人類がツルツル皮膚となったのは、雌雄共に「体毛が少ない異性に魅力を感じたから」が有力説となっている。
 体毛がなければ冬は凍える。寒いので動物の毛皮を身にまとう。すこぶる不効率であるが、効率を犠牲にしても、進化は「異性の関心」を優先する。それほど有性生物にとって「異性の関心」は進化の強い動機となる。

 

 「異性の関心」進化は、種全体の欲求というよりは、特定の個体(個人)の心理が動力となる進化である。同族の中にあって他よりも強くなりたい、誰よりも美しい容姿になりたい、という願望から起る形体や資質変化である。したがって同種進化の中でも個体の心理(願望)が関係する進化は、同族競争と繋がる。競争心が遺伝子の奧底に格納された進化スイッチを押すのである。「異性の関心」進化が同族競争を起こすということは、「偉くなりたい」、「金持ちになりたい」などあまたある人間社会の競争心は、結局のところ「男女関係で優越したい」という本源的競争心=同族競争の最終目的から派生する欲と整理できる。

 


 更に進化の形態を眺めると、一定のルールに気づく。それは在来種が既に獲得している個体形状の「部分変化として進化は進む」ということである。四つ足陸上生物から始祖鳥が進化したとき、両手が翼に変化した。鳥は翼を得るために両腕を失った。機能性だけを追求するのであれば、両腕はそのまま残し、背中から新たに翼が生える方が便利であるが、そうはならない。何かしらの既存機能を失う代償として進化は新機能を与える。もし両手を持つ鳥が必要であれば、動物の手足が4本と確定する以前まで遡り進化をスタートさせねばならない。

 

 

 どんな創造主が生命に進化のメカニズムを組み込んだのかは分らないが、進化という現象を論理的に追えば、地球に何かしらの生命が存続継承することを天命とし、生存に有利となる変異を繰り返しながら生命を繋ぐことを本流としながら、その亜流として特に有性生物出現後は同族競争による適者生存動力を付加、特定種単位の絶滅回避のリスクを減ずるよう機能させたようにみえる。

 

オマエはサルだ


 さて、生物進化の最高位に位置する人間であるが、進化の宿命からすれば「同族競争」本能が回避できないと想定される。ことさら進化云々を云わずとも、「そもそも動物社会は弱肉強食であるのだから、当然人間社会も生存競争が本質である」との主張もまかり通る。動植物を支配するだけではなく、人間同士でも適者のみが生存するのが人間社会の本質だ、との見方である。
 しかし「オマエはサルだ」といえば、最大の侮辱となる。人は単なる動物とは違う崇高な存在でありたい、と誰もが思う。ならば、人類は進化と競争の宿命を超越する存在となりうるであろうか。
 「人間はサルではない」と反論するのは容易いが、「何を根拠にそう言えるのか」をどう説明すればいいのであろうか。この点につき、人間のみが進化という生命体の摂理に抗う術を手に入れた事実が反論の足がかりとなる。人類が育てた科学技術のことである。

 

 競争が種の存続継承を求める進化から要請されているのであれば、人類が科学技術の応用で「死滅回避」を担保すれば、「自然界の」あるいは「超自然界の」摂理に捕らわれる必要は無い。
 人間が自然の猛威を完全にコントロールすることは今少し先であろうが、繰り返された凶作による大飢饉の歴史は、農業技術と物流の発展によりすでに対策が進む。医学や生命工学の進歩がやがて不滅の生命を実現するかもしれない。
 環境変化や外敵が種滅亡の主因であるが、進化や競争に拠らずして人類は種としての存続継承を自力で遂げる可能性がある。それが実現できるのであれば、人間は進化を超越する生物として特別な存在といってもいい。

 

 注意したいのは、科学技術があるから人間は自然界を支配するという単純な話ではない、ということである。競争が本質のサルが科学技術を持てば、大量破壊により種は滅亡の危機に瀕する。人間の意識の奧底に潜むサル的野生が増殖すれば、科学技術は人類滅亡の刃となる。

 

 生命の誕生とともに天命は、種の存続継承を定めとした。定めを実現する具体的装置として進化や競争を生命体に宿した。しかしいかなる天恵であるか、人間のみが自然摂理の拘束から逃れる自由を付与された。


 幾分宗教哲学的な領域となるが、もし自由の付与をも天運のシナリオだとすれば、科学技術という天恵は、天命に沿うよう行使せねばならない。万一用途を間違え、人間の科学技術が地球の生命体の脅威へと進むのであれば、脅威を除去するため、天命を全うするため、人間の知識や意識とは無関係に新種進化スイッチが起動しないとも限らない。

 

(編集部主筆