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日韓ビジネス指南(2):韓国企業と付き合うビジネスマン心得

日本語と韓国語の不思議な関係(1)

 先週、トランプ大統領は就任後初めてアジアを歴訪しました。日本に続いて韓国を訪れたのですが、この時の歓迎晩餐会で、日本にとっては少々癇に障る出来事がありました。言うまでも無く、独島エビなる料理を振る舞い、元慰安婦を参加させ大統領との抱擁まで演出して見せたことです。

 吃緊の重大課題である北朝鮮問題で日米韓の結束が求められる折、平然とソンなことが出来てしまう隣国に、多くが何たる軽挙と神経を疑うだけではなく、何やら民族としての陰湿的な粘着性まで感じてしまうことは避けようがありません。

 政治や社会でソンな悶着が続けば日韓のビジネスにも影響します。「ビジネスに私情は禁物」との格言はありますが、人間は感情で行動する動物ですから、一度「アイツは嫌いだ」となれば、「ソイツとは仕事したくない」と思うのは当然です。

 領土問題や歴史問題は、いつか機会を改めて、平均的な日本人と平均的な韓国人のコモンセンスを比較して問題の本質を探ってみたいと思いますが、とりあえずこのシリーズでは、今暫く「儲けは善」であると割り切って、韓国企業と上手く付き合い、利益を最大化するツボを追ってゆきたいと思います。

魔法の杖

 ビジネスを円滑に進めるためには、相手との信頼関係の構築が不可欠です。この原則は国の内外で一様ですが、文化風習が異なるため外国人相手となるとコレに苦労します。信頼関係構築には、お互い裃を脱ぎ、打ち解けた間柄となることが近道ですが、こと韓国人に関しては、融け込むための「魔法の杖」があります。

 日本人であれ、韓国人であれ「この杖に魅せられない人はいない」と言っていい位ですが、韓国人ビジネスマンにしか使うことができない杖でもあります。その杖とは空き時間に「日本語と韓国語の不思議な関係」を話題とすることです。

 
 筆者が初めて韓国に出張したのが1988年、丁度ソウルオリンピックで韓国中が沸騰している最中でした。商談のため手配した通訳さんに「おいくらですか(値段を尋ねる)」を韓国語では何というかを質問した時、「オルマイムニカ(오루마이무니카)です」と聞き、仰天したことを思い出します。

 「オイクラデスカ」=「オルマイムニカ」ですから、「殆ど同じではないか」とビックリしたのであった訳ですが、日韓を行き来するビジネスマンであれば、奇怪なほど類似する日本語と韓国語の不思議な関係に思いつく人は多いと思います。

 言語学者によれば、日本語と韓国語の文法構造は酷似しており、語順や助詞の活用など日本語の特徴の多くが韓国語と一致するのだそうです。文法が同じであるということは、単語を置き換えるだけで韓国語になることを意味し、実際、コンピュータ翻訳も日英翻訳などに比べ、日韓翻訳は格段に性能が良く、面と向かってはコミュニケーションできないが、電子メールなら商談できるという話もよく聞きます。

   擬態語と動詞

 類似点は文法だけではありません。日本語の「擬態語」と韓国語の「動詞」には奇怪な関係があります。「ウルウルと泣く」、「ビカッと光る」のウルウル、ピカッが擬態語ですが、この擬態語と韓国語動詞の数奇な関係を知ると、「何故そのようなことが起るのか」とそれこそ「夜も寝られなくなります」。


 日本語で「ウルウル」と言えば、続く動詞は必ず「泣く」です。これは一対一の対応で、「ウルウル」は「泣く」にしかつながりません。この「泣く」を韓国語(動詞)で、「ウルダ(울다)」と言います。「ピカッ」と言えば「光る」の擬態語ですが、韓国語で「光る」は、「ピナダ(빈나다)」と言います。

 


 このような類例は以下に並べたように無数にあります。

・「タッタッと走る」 →「タッリダ」(走る):탓리다

・「お腹がペコペコ」 →「ペガコプタ」(お腹がへる):배가 고프다

・「モグモグ食べる」 →「モクタ」(食べる):먹다

・「ポイっと捨てる」 →「ポリダ」(捨てる):버리다

・「ウフフと笑う」  →「ウッタ」(笑う):웃다

・「パッと変わる」  →「パックダ」(変わる):바뀌다

・「カッと怒る」  →「ファナダ(怒る):화내다  

  《「カ」→「クワ」→「ファ」:歴史的仮名遣い》

・「ピチャピチャ雨が降る」 →「ピッ」(雨):비

・「パラパラと木の葉舞い散る」 →「パラム」(風):바람

・「チョッピリ」(量が少ない) →「チョクタ(少ない)」:적다

・「ノッポ」(背が高い) →「ノプタ(高い)」:높다

 

 数えれば切りがありません。これだけ不思議な一致が存在するとなれば、もはや偶然とは言えないでしょう。日本語と韓国語の間にかつて何かしらの奇縁があったとする他ありません。日本も韓国も中国語(漢字)を輸入していますから、中国語由来の単語(音読漢字)が日韓で共通するのは当然ですが、擬態語と動詞の関連でいえば、固有語(自国語)の領域であり、日本語と韓国語の特殊な関係といえます。

  

  嘘は、なに色

   擬態語だけではなく奇縁は、言語文化全般に渡っています。もしアメリカ人に「嘘は、なに色ですか」と尋ねれば、「You are a crazy.」と一笑されるでしょう。「嘘」という抽象名詞に色があるはずがありません。しかし日本人、韓国人であれば「真っ赤」と答えるはずです。「真っ赤な嘘」という慣用句があるからです。

 真っ赤な嘘は韓国語で「セッパルガン コジンマル(새빨간 거짓말)」と言いますが、セッパルガンが「真っ赤」、コジンマルが「嘘」との意味です。不思議なのは、嘘は必ず「真っ赤」であり「赤い嘘」とは言わないように、韓国語でもコジンマルは必ず「セッパルガン(真っ赤)」であり、「パルガン コジンマル(赤い嘘)」とは言わない点です。

 この慣用句は植民地時代とは無関係に両国で古来より伝わる表現です。嘘には色があり、その色は「赤」ではなく「真っ赤」であるとは日韓の共通意識であり、それを過去から現在に受け継いでいるのも妙な一致です。勿論、個別に受け継いでいるのであって、二国で示し合わせているわけではありません。

 

 「まっすぐ」と言えば、日本語で一直線に(つまり「曲がらずに」)との意味となりますが、韓国語では「トッパロ(똑바로)」と言います。「まっすぐ(真っ直ぐ)」を分解すると「真=後に続く単語を強調する接頭語(=very)」と「直ぐ」の合成であることが分かりますが、「直ぐ」は切り離されると、単語としては「直ぐに」=「急いで(=Hurry up)」と別の意味となります。

 つまりVery Hurry Upと日本語で言えば、「大急ぎで」との意味とはならず、「一直線に(ストレートに)」と、方向を意味する言葉に変わってしまうのですが、この関係がまた韓国語でも一致します。

 トッパロの「ト」はveryを意味する接頭語、「パロ」は、韓国人が頻発する「パリパリ(早く早く)」と同じで、Hurry upとなるので、韓国語でもVery Hurry Upと言えば、時間を急かすのではなく、方向を示す表現と変化します。何でこんなことまで符号するのでしょうか。

 てにをは

 日本に赴任する韓国ビジネスマンが、たどたどしい日本語から始まり、ものの数ヶ月で熟達する成長ぶりに驚嘆する人も多いと思います。勿論、一人一人の努力の賜物であるのですが、日本語学習には韓国語が特別に有利であるとの面もあります。

 外国人にとって厄介なのが「助詞(てにをは)」の使い方です。例えば、商談に来日した外国人ミッション団の内、日本語が話せるのは通訳一人だけという状況で、「どなたが通訳さんですか?」と呼びかければ、通訳は、「私が通訳です」と名乗り出ねばなりません。この時、「私は通訳です」とは言えません。ですが、国語学者でも無い限り、どうしてこの場面で「は」は使えず、「が」を使わねばならないかは説明できるものではありません。

 一般的な日本人でも説明できないのですから、外国人がその使い分けを理解するのは容易ではなく、通常厄介な「てにをは」を回避して、「私 通訳です」と助詞を省略してしまう傾向にあります。

 ところが韓国人であれば、造作なく「私が通訳です」と正確に答えるでしょう。同じ質問を韓国語で尋ねれば、返答は、「ネ(私) トンヨン(通訳)イムニダ( です):내가 통역입니다.」と「が」をつかう場面が一致しているからです。この場合、助詞「が」は、韓国語助詞の「ガ」と音まで同じです。

 苛酷な受験戦争で知られる韓国の学校教育では、小学校で英語教育が始まり、高校では英語以外の第二外国語を選択履修せねばならないところが少なくありません。選択される第二外国語では、日本語も人気だとのことですが、その動機は「一番簡単だから」が理由のようです。

 

  「見る」と「みる」

 「ポダ(見る):포다」という韓国語動詞の使われ方にも、尋常ではない日本語との不思議な関係を実感します。「見る」とは「目撃する」との意味ですが、日本語で「キムチを食べて見る」、「痛い目を見る」という場合の「見る」は、「目撃する」という意味はなく、補助動詞として、話者の挑戦や体験の動作を表します。

 この補助動詞としての用法が韓国語でも同じです。「キムチルル モゴ ポンガ.(キムチを食べて見る):김치를 먹어 보는가? 」、「トュックマン マスル ポンガ.(痛い目を見る):따끔한 맛을 보는가?」。驚くのは日本人だけではありません。日本語を学ぶ韓国人も、「見る」と「ポダ」の類似には仰天したとの話をよく耳にします。

 

 韓国語「コッリダ(~かかる):걸리다」は、「(時間が)かかる」、「(病気に)かかる」、「(魚が網に)かかる」などを意味する動詞ですが、英語であれば、”takes (time)”、”suffer (from a disease)”、”caught (in a net)”のように、それぞれ別の動詞を用いるところを「~かかる(コッリダ)」の一語で済ませるなどもにも不思議な関係の深味が漂います。「言い回し」から「事物を表現する感覚」に至るまでの不思議な一致は、「日本語の起源とは」との求知心を掻き立てます。

  異なる語源

  非言語的な表現の着想・心理に至るまで共通するのであれば、日本人と韓国人は、最もコミュニケーションし易い「外国」の間柄であるといえるはずです。にもかかわらず語彙の音(発音)には関連性が無いことを語学の専門家は指摘します。

 比較言語学によれば、語源が同じ言語の場合、日常用語を現す単語の音が類似するとの法則があるのだそうです。ところが、日本語と韓国語の場合、「頭」は、「モリ:머리」、「目」は、「ヌン:눈」というように大凡無関係な音です。

 擬態語の不思議な一致にしても、「ウルウル泣く」の「泣く」を日本語動詞で「ウルく」とでも言うのであれば、語源が同だとの単純は話ですが、「ナク」と「ウルダ」ですから到底関係があるとは思えません。にもかかわらず、擬態語と動詞となると接点が生まれる現象をどう解釈すればよいのでしょうか。

 言い回し、発想が共通し、語彙が異なる、二つの言語の関係はミステリーに満ちています。あるアメリカ人は、「言葉は知らないが、口調で中国語か日本語かは分かる。しかし日本語か韓国語かの区別はつかない」と話していましたので、第三国の人々には日本語と韓国語は同じに聞こえるようです。

  好む好まざるとにかかわらず

  島国である日本は、ややもすると文化も言語も独立独歩、孤高の閉域社会だと思い込みがちですが、言語だけをみても隣国とは切り離せない不思議な関係にあります。ソレを好む好まざるは、人それぞれでしょうが、少なくとも「利益優先と割り切る」ビジネスの世界であれば、裃を脱ぎ、一夜にして親近感をもたらしてくれる魔法の杖(話題)を使わない手はありません。

 初対面の韓国人でもこの話題でたちまち盛り上がるのは請け合いです。この杖が使えるのは日本と韓国(勿論韓国語と同じ言語の北朝鮮も)限定の特権なのですから、、、。


 次回はもう少し日本語と韓国語の不思議な関係を紐解きます。

 

(つづく)

 【ソウル通信】2017.11.13配信