時事旬報社

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日韓ビジネス指南(4):韓国企業と付き合うビジネスマン心得

 

 

「すみません」は、ありがとうの意味?、

「いいです」とはYES.それともNO.?

  韓国ビジネスマンから学ぶ日本語の不思議

 


 今朝、北朝鮮がマタゾロ、弾道ミサイルを発射し、「ついに全米を射程内にとらえる大型ICBMを完成した」と鼓舞してみせました。解決の緒が見いだせない北朝鮮問題にイライラが募るばかりです。片や韓国はといえば、国会で「慰安婦の日」を可決する、サンフランシスコ慰安婦像の公共物化に喝采するなど、熱心なのは日韓連携に水を差すことばかりと思え、北と南併せて「半島問題」に日本人としてはほとほと疲労感が漂います。 とはいえ、今年前半(1-9月期)韓国への中国からの直接投資は63%減と大幅に減少したのに対し、日本から韓国への投資は前年比90%増(約17億ドル)と激増しています(米国から韓国へは5.5%減少)。何故、「ソウなるのか」については専門家が諸々解説していますが、それはともあれ「ビジネスはビジネス」と割り切る経済的な力学が日韓に顕在することもまた現実です。


 今回も「ビジネスはビジネス」と割り切って韓国企業との付き合い方を(政治の話は横に置いて)続けます。今号もまた日韓言語文化の話題となりますが、前号までの「同じ」あるいは「同じだが違う」といった内容ではなく、「全く違う」がテーマとなります。言語文化として「違い」が表出するのですが、その発生源は日韓の精神文化の「違い」に起因するといえます。

 

 

 「行く」は「いく」か「ゆく」か

 

 

  「『あいにくですが、お引き受けしかねます』は、文法的には正しい敬語ですが、現在ではチョッと尊大な響きとなるので、『しかねます』という表現は避けたほうがいいです。」10年程前、筆者は依頼されて韓国ビジネスマンを相手に「ビジネス会話」の講師を務めたことがありました。 そのとき「今では『しかねます』は、相手にえばった印象を与えてしまいます」と話したところで、一人の研修生がカバンから電子辞書を取り出し何やら調べだしました。 不思議に思い、「何を調べたのですか」と尋ねると、「『えばる』という動詞が辞書に載っていません」といいます。「そんなことは…」と思い、電子辞書を借りて探したのですが、やはり見つかりません。その時「ハッ」としました。「えばる」ではなく「いばる」が正しい日本語なのです。大きな辞書であれば、「えばる」は「いばる」の音変化と解説されていますが、微妙な音の違いに耳をすます研修生の「するどさ」には脱帽です。正しい基本的な日本語を発音しなければ、と恥じ入りました。


 外国との交流を通じて「日本を再発見した」との経験を持つ人は少なくないと思います。特に言葉は、外国語と比較するという機会がなければ空気のようなもので存在感もありません。ところが、韓国の人に日本語を「解説する」となった途端、無味無臭、無形物であった言葉の姿、形、時には味を「語る」ことに迫られ狼狽します。「『行く』は『ゆく』ですか、『いく』ですか」などと想定外の質問に、これまで開いたこともない文法書の買出しに書店に走る、などの椿事もおこります。


 文法が酷似し、表現の着想や言いまわしまで近い関係にある日本語と韓国語ですが、韓国の人たちと共に日本語を見つめなおすと「言葉の文化」の領域では大きな違いがあることを教わります。その一つが、日本語は驚くほど「あいまいな表現が多い」ということです。研究者は、日本は「あいまい」を美徳とし韓国では「はっきり」モノを言うのが良いとされる傾向があると指摘します。その違いを甘じょっぱい薄味の「お新香」と強力な辛さの濃味「キムチ」を好む国民性の違いに例える人もいますが、韓国語を学んだ日本人が韓国で、「あいまい」を美徳とする流儀で韓国語を話すと、「お新香臭い韓国語」と映るのだそうです。

 しかし日本語のあいまい美徳は、韓国とのビジネスにおいて障害となることが少なくありません。来日する韓国ビジネスマンのほとんどが日本風の「あいまい表現」に困惑した経験を持ちます。韓国の人には奇怪と映る、日本語のあいまい表現とは、どのような姿・形なのでしょうか。

 

 

「結構です」と「いいです」

 

 

 「『結構です』、『いいです』と回答した場合、質問に対するYES.ですかNO.ですか?」企業研修生のセミナーで筆者はよくこの意地悪な問題を出したものです。教科書で日本語を学んできた研修生が文法的に「YES.だ」、「いやNO.だ」を論じ合うのをひそかに楽しむのはチョッと陰険ですが、もちろん「結構です」、「いいです」はそれだけではYES.NO.を断定できません。

 「せっかくですが結構です(いいです)」と言えばNO.であり、「実に結構ですネ!(いいですネ!)」と話せばYES.の意味となります。日本人であれば、この微妙なYES.NO.を誤解することもないでしょうが、日本の家庭に招待された韓国人が、夕食のテーブルで「おかわりはいかがですか」との呼びかけに、YES.のつもりで「結構です」と応え、空きっ腹で食事が終わってしまった、などのハプニングは起こりがちです。


 無味無臭の母国語として使っているだけでは気にもなりませんが、同じ動詞でありながら正反対な意味に変化する動詞など他の国にあるのでしょうか。「すみません」という表現も韓国の人が戸惑う一言です。「すみません」は「ごめんなさい」の意味と勉強してきた彼らが、「ありがとう」としても通用している現実に直面すると、陳謝と感謝を同じ表現で済ませる言語で「よく意思表示ができるものだ」といぶかるのも無理はありません。レストランで「すみません」と店の人を呼べば、「誰が誰に対して陳謝(感謝)」しているのでしょうか。

 韓国語の「ミアンハムニダ(ごめんなさい)」は、どう転んでも「カムサムニダ(ありがとう)」の意味にはなりません。韓国語を学んだ日本人がうっかり「ありがとう」の意味で「ミアンハムニダ」と言ってしまうと「お新香臭い韓国語」を通り越して意味不明となってしまいます。

 

 

「ぼかし」と「強調」

 

 

 日本語特有のあいまい表現について、NHKのテレビハングル講座を担当されていた金珍娥(キム ジナ)先生が誠に興味深い研究を紹介されています。先生は研究のため、いくつも日本人の日常会話を録音し、分析を進めたのだそうですが、その結果、確定的な言い回しを避けるために日本人は普段着の会話であっても無意識に主張をあいまいとする「ぼかし」表現を頻発させていることを探りだしました。その典型パターンとして先生が紹介された表1では、二人が交わす3回の受け答えの中に9回ものぼかし表現が登場します。

 この研究が面白いのは「ぼかし」が多い日本語に並べ、「強調」表現が繰り返される韓国語の特性を対比していることです。どうも「はっきり」モノをいうのが正当と考える向きの韓国語では、主張を強化する「強調」表現を続発させるようです。表2に例示される韓国語の会話では、2行の発言に4回の強調表現が現れます。この調子で「ぼかし」と「強調」が挿入されるのであれば、日本語からぼかし表現を、韓国語から強調表現を全て抜いてしまえば、会話は3分の2で用が足せる計算です。あえて語数を多くしてでも「あいまいとする」、「強調する」のは、日本と韓国が古くから受け継いできた社会文化や道徳、価値観の「違い」の関係なのでしょう。

 ことによると金珍娥先生も日本語のぼかし表現というスタイルを知り、母国語である韓国語の強調表現の姿、形を再発見されたのかもしれません。異質な日本語の持ち味を見つけては、「絶叫するぐらい面白い日本語の妙味」と先生は日本語研究の醍醐味を記されていますが、この妙味が引立つのは母国語という下味が利くからに他なりません。

 

(表1)ぼかし表現】
A:最近どう?

B:だるいかも。あーあ、みたいな。 

A:うん、私も はあーって感じ。 

B:友達と韓国行こうとかっていってたのに. 

A:あ、いきたいかも。 

B:っていうか韓国、食べ物多くない

  なんか韓国っていえば焼肉って感じで

 

(表2)強調表現】

어제  집에 가는데  길에서 친구를  만났거든요.

オジェ マク チベ カヌンデ キレソ  チングルル  タン  マンナッコデュンニュ

昨日わーって家に帰るところで 道で友達にまたばったり会ったんですね。


그 친구  진짜  딱 분위기가  되게  막  모델 같았어요.

ク チング チンチャ  タクプヌィギガ トェーゲ マン  モデル  カッタソヨ

その友達がほんとばっちり雰囲気が  すごくぴったりモデルみたいでしたよ。        NHK『アンニョンハシムニカ(ハングル講座)』2005年8月号テキストp.56)

 

 

主語も述語のない会話

 

 

 もう一つ韓国語から学ぶ日本語の特徴として目にとまるのが、主語と述語(動詞)のない表現です。「では、また」と私も何の躊躇もなくメール文の最期に書き添えますが、この一言には主語も動詞もありません。

 「では、また」を分析すると「それでは、□□にまた○○します」が省略された形であるはずです。□□は「貴方」が入るところまでは明確です。しかし「○○します」はあいまいです。「ではまた、貴方にメールします」、「電話します」、「訪問します」、○○に入る動詞はいくつも可能性があります。どうも日本語は、「○○に入る動詞は、ご自由にご想像ください」といった場合は「後は細かく言わなくてもいいでしょう」と片付けてしまうようです。


 「おかげさまで、」という言葉も不思議な日本語です。久しぶりに再会した旧友から「お仕事は順調ですか?」と挨拶され「おかげさまで、」と応えるとき、省略された述語は、「おかげさまで、まあまあ順調です」ほどの意味合いです。 しかし主語は何でしょうか。筆者は長いこと深く考えることもなく、主語は「貴方」を省略したものと信じていました。仮に旧友は自分の仕事に何の貢献もしていなかったとしても、社交辞令として「貴方のお力添えで、私の仕事も順調です」といっているものと思っていました。

 この「おかげさまで、」の主語は何かを調査した報告によると、「貴方」は主流派ではなく、自分を含めた自分の会社(社員全体)が主語だと思っている人が多いようです。驚いたことに「神様」とか「天運」といったものが主語との少数意見もありました。


 「おかげさまで、」にしても、主語が何かを確定させることは余り重要ではなく、突き詰めて考えると分からなくなることでも、「あえて言わなくてもいいでしょう」と漠然と済ませるのが日本語の流儀のようです。 しかし韓国語ではそうはいきません。主語を省略する表現が多いのは日本語と同じですが、動詞まで省略することはありません。会話も動詞など述語で完結する必要があります。述語がないと韓国語会話は成り立たなくなります。

 「あっ、地震」。突然、グラリと振動が事務所を襲えば、日本人であれば名詞の一言で意味が通じます。しかし韓国語ではこのような場合でも述語が必要です。椅子やテーブルがガタガタ鳴り響く中、「地震です」と叫ぶ韓国人の日本語を耳にしながら、この非常時に韓国の人は何と丁寧な言葉遣いなのだろうと関心したものです。

 

 

「言わなくても分かるでしょう」

 

 

 「言わなくても分かるでしょう」の日本流は、集団の中で自分の主張を控え、摩擦を極力回避するという社会集団的な心理から導かれるようです。特に目上の人やお客様など丁重な対応が必要となる場合、失礼がないように「これ以上は言いませんから、後は私の心を察してください」という特殊な話法を発達させました。これは外国語には見られない異色な言い回しです。
 「社長はいますか。」事務所にかかってきた電話でいきなり依頼されても、そのまま取り継ぐわけにはゆきません。誰からの電話であるかを確認しなければ社長に怒られてしまいます。「失礼でございますが、どちら様でいらっしゃいますか」と聞けば、文法としては正しい日本語です。しかし大方そうは尋ねません。たんに「失礼でございますが、、、(以下省略)。」という話法で、「後は言わなくても分かるでしょう。アナタの名前を聞いているのですよ」をアウンの呼吸で伝えます。これでよほど鈍感な日本人でなければ、会話は成立するはずです。

 

 この日本流ビジネス・マナーは、韓国人にはカルチャーショックであるようで、早速、「失礼でございますが、、、」を電話口で試してみては、相手が名乗るのを確認し、文化の違いを楽しみます。

 「言葉の文化」の違いから突拍子もない珍事も起こります。韓国人ビジネスマンAさんとある日本企業を訪問した時のことです。Aさんは、韓国で日本語を習得し、日本駐在員として着任したばかりです。 受付で筆者が「T部長はいらっしゃいますか」と告げると、受付の女性はすかさず「失礼でございますが、、、」で対応します。そこで名を名乗ろうとした瞬間、何を思ったか、Aさんが半歩前に出て、「ぜんぜん、失礼ではありません」と悠然とのたまったのです。

 私も絶句したのですが、女性は完全に固まってしまいました。予測不能な一言に応ずる術なく、パニックに陥ってしまったのです。

 後で、どうして「ぜんぜん…」と受付の人に言ったのかを聞いてみると、Aさんは、「とても礼儀正しいし、かわいい人だから、失礼なことは何もない、と言ってあげなくっちゃ」と答えました。


 このあいまい表現と強調表現の違いですが、驚くことにすでに幼稚園児から日韓の違いとなって表れるようです。例えば、幼稚園の昼休み、園庭で遊びに夢中となっている園児に先生が「もう外で遊ぶ時間は終わりました。教室にもどって勉強しましょう」と呼びかけた時などのシーンです。

 日本の園児であれば、一斉に「エー」と合唱するはずです。ところが韓国の幼稚園であれば、一人一人が「シロー(嫌だ)」と訴えます。「エー」という日本の感嘆詞は、それだけでは「嫌だ(=NO.)」の意味はありません。「エー!(嫌だ)」の嫌だが省略されている表現です。「嫌だ」を省略するだけではなく、全員の合唱であることがまた日本では重要です。全体として「NO.だ」になっていることが日本では大切なのです。おそらくあいまい表現に加え「自我を露骨に出すのは下品」といった美意識が合唱の底辺にあるのでしょう。

 ところが、韓国は違います。立派な人格者は主義主張を持つというのが韓国流で、自分の立場は明確にせねばなりません。勿論、親が子に「こういう場合は、エーと合唱しろ」とか「シローと自己主張しろ」などと教えているのではありません。幼稚園児の「エー」と「シロー」は、風土が異なる日本と韓国の社会が、自然とそれぞれのあいまい文化と強調文化を教育しているのです。「言葉は文化の化体」ですので、この違いは精神文化、社会風土の相違に由来します。

 

 

日本語勘違いの傑作

 

 

 本題から少し離れるのですが最期に、後世語り継ぐべきだと思えるほどの、「日本語勘違い」の傑作との出会いを書き添えておきたいと思います。その出会いは筆者に届いた韓国企業研修生Sさんからのメールに書かれていた次の一文です。


 「企画書を書きましたので、貴様の方でチェックしてください。」


 早速、Sさんを呼んで、「『貴』も『様』も相手を持ち上げる文字だけど、合体させてはダメ。貴様(キサマ)というと、けんかするときの呼び方になってしまいます。」と話すと、「エッ」っとSさんはビックりし、聞き返します。

 

「どうして日本人は、けんかするときも相手をうやまうのですか?」。

「ぜんせん、うやまってません。」

「どうして?」。

「どうしても!!。」

 

 聞いた話ですと、韓国の古いワープロソフトの中には、日本語入力モードで「あなたさま」を変換すると「貴様」となるものがあった、とのことですから、Sさん個人の問題ではないかもしれません。ただ、この一件には後日談があります。貴様メールの次に届いたSさんからのメールには、こう書かれていました。


 「企画書を書き直しましたので、殿様の方でチェックしてください。」


(つづく)
 【ソウル通信】2017.11.29配信