時事旬報社

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民法と資本主義:法律の話(1)

200年続く法律

 朝起きて、会社や学校に行くまでに私達は既に何十という法律(契約)行為を行なっています。NHKのニュースを見るのはNHK受信契約によりますし、電気もガスも契約。電車に乗るのもコンビニで朝食のパンを買うのも全て契約に基づく法律行為を行なった、ということになります。そもそも学校や会社に行くこと自体が法律に基づいています。
 誰も意識することはないでしょうが、法律学的な解釈からすれば、「パンを買う」という行為は、「意思主義(契約書という要式を必要としない)による売買契約(民法が定める権利移転の典型13種契約の一つ)を成立させた」ということになるのです。

 法律が社会生活に不可欠であることは言うまでもありません。そして法を執行遵守するために行政府(地方自治体や政府などの機関)が存在し機能せねばならないのは当然です。人類が文明を形作った太古から「法(おきて)」とその「執行管理」は自然発生するのですが、現代的な法体系が整備されたのは近代ヨーロッパの市民革命以後のことです。この時成立した近代法と社会システムの概念や価値感が現在でも引き継がれています。

 日本で民法が制定されたのは明治29年(1898年)、刑法は明治40年(1907年)です。市民革命後整備されたヨーロッパ法を輸入して制定されました。その大系は現在でも概ね同じで、今日、誰かが法令違反を犯せば、明治に作られた法律で裁かれることとなります。この状況は日本に限らず欧米でも大差ありません。21世紀の今日でも世界は、200年前、市民革命当時に成立した法の概念・秩序によって規律・拘束されると言えます。


 さて、近代の法律大系は大きく公法と私法に分かれます。公法は刑法や憲法のように国家と国民、国家権力と市民(私人)との関係を規律する法律で、私法とは民法や労働法のように市民と市民、私人間を規律する法律のことです。
 このうち、公法は傷害事件(刑事事件)に巻き込まれたとか、国道を通すため私有地が行政代執行で収用されるなど、よほど特殊な事態が発生しない限りお世話になることはないのですが、私法は日常の市民生活の隅々に結び付いています。冒頭にお話ししました「朝起きてから出勤するまでに繰り返される法律行為」は、私法、とりわけ民法が定める行為がほとんどとなります。

 

物権と債権

 「民法を制する者、司法試験を制する」という俗言がありますが、弁護士になろうとすれば「民法のマスターがヤマだ」という意味で、条文知識は元より、民法を形成する法理(原理)の理解が不可欠となります。
 民法は全5編から構成され、第1~3編までが財産法、第3~4編が家族法に大別され、法体系のロジックとしての理解が必要となるのは財産法の方です。そして、そのロジックとは何かといえば、財産権とは「物権」と「債権」から構成され規律されるという、市民革命によって確立された財産権行使を秩序付ける法律的論理概念(法理)のことを意味します。

 財産法とは、要するに「個々の財産が誰に帰属するか」を明確とし、「財産トラブルをどう解決するか」の定めです。民法典の条文の殆どが、この問題に裂かれています。「市民と市民の紛争」、「巷でのゴタゴタ」は財産権(金銭もしくは金銭的価値のあるもの)に関連するものがとても多いことを想えば当然かもしれません。家族法をともかくとすれば、民法の機能とは財産権の紛争解決ないし紛争回避にあると言えます。

 誰が物権と債権という法概念を考えついたかは知りませんが、その発明は天才の所業に違いありません。財産権は物権と債権に類別され、必ずこのどちらかに帰属します。物権とは「所定の物(権利)を直接(つまり他人の行為を介することなく)支配する権利」のことで代表的な物権は、「所有権」です。債権とは「財産に関して、ある人が他のある人に対して、特定の行為を請求しうる権利」のことで、代表的な債権は「借金(金銭消費貸借債権・債務)」です。特に「所有権」という概念秩序が確立したことは、現代社会を運命づけるほど大きな出来事でした。


物権は債権を破る

 「物権は債権を破る」という法格言がありますが、法律の理論上、物権は債権に優先される強力な権利と位置づけられ、物権(例えば所有権)保有者は無条件に誰にでも権利を主張できるのに対し、債権は契約関係にある特定の個人にしか主張できません。
 ですのでアパート賃貸契約を結んでいても、賃貸居住権利は債権でしかなく、もしアパート所有者がアパートを第三者に売却(物権譲渡)してしまえば、債権者は物権者(物権新所有者)に抗えず、もし明渡し(退去)を要請されると、転居する他ないのが原則です(実際は借地借家法など特別法により、一定の条件範囲で賃借人は保護される)。

 少し注意したいのが、物権は「物件」ではない、債権は「債券」ではない、ということです。物件は不動産物件のように有体物となりますが、物権は権利であって常に姿形があるとは限りません。民法が定める抵当権という物権は、債務不履行が起こった場合に行使できる権利というだけで物体として存在しているわけではありません。
 国債や株式証券などという有価証券(債券)は債権の一種ですが、債券とは目に見えるように権利義務を紙にしみこませた約束証書というだけで、口約束でも債権は成立します。


人工的権利「時効」

 民法は時効という制度を設けています。財産権も権利者が行使しないと権利を失うという制度です。例え他人の土地であっても一定期間平穏無事(誰からも立ち退きを請求されず)に占拠を続けると本当に自分の所有地(真の所有者)となります。これは取得時効という制度ですが、消滅時効という制度もあります。他人にお金を貸しても一定期間「返せ」と言わずに放置すると、返還請求権を失うという制度です。

 この取得時効、消滅時効ですが民法の法理上、所有権には取得時効しかありません。一方、債権は消滅時効だけであるのが原則です。貸してもいないお金を「返せ、返せ」と言い続け、一定期間相手方から「借りた覚えはない」と反論されなかったからといっても「債権の取得時効」などはありえません。
 どうしてソウなるのかが少々不思議です。しかし疑問を抱いても無意味です。物権債権概念を秩序づけるために近代民法が人工的にそのようなシステムとしたからです。外国語を学ぶためには、その言語の文法を習得する必要があります。文法は丸覚えする他なく、なぜ「ソノように動詞は変化するのか」などと考えても意味がないのと同様に、法律も文法に相当する骨格を理解せねばならず、法律の資格試験ではその理解がヤマとなり、民法はことさらヤマが険しい、ということです。

 民法は、「これはオレのものだ」とか「私の権利だ」とか合法的に主張できるものは、その人が持つ物権もしくは債権に限定されると定めています。海洋を自由に泳ぐ魚は誰の物でもないのですが、釣り上げた魚は、確保し占有した時点で釣り人に魚の所有権が発生する(原始取得物権)と規定するなど、社会現象の一切合切を物権債権で秩序づけ、行政(司法)がその秩序(権利)を守ってくれます。
 合法的に主張できる権利でなければなりません。違法行為から発生する権利、例えば麻薬密売による代金受け取り権利や裏口入学の斡旋料債権などは無効(当初から法律行為は発生していない)となり、「カネを払ったのに、裏口入学できなかった」と裁判所に訴えても法律は保護してくれないのです。


財産権の紛争は三種類だけ

 また物権債権に関連する義務権利で、起こりうる紛争のタイプも民法は定義づけています。簡単に整理してしまえば、財産権に関連するトラブルは、「債務不履行」、「危険負担」、「担保責任」のいずれかに起因する、ということになります。極論すれば、(家族法関連以外)社会生活のトラブルで民事訴訟として法律が解決してくれる対象は、物権もしくは債権に関する権利義務であり、その発生原因が債務不履行、危険負担、担保責任のどれかに属する事案のみということになります。


 債務不履行とは契約違反のことで、「カネを払ったのに商品が届かない」、「注文した商品と別の商品が届いた」など法律行為(契約内容)が契約の本旨に沿って履行されない状況です。財産権のトラブルの大半はこれです。
 債務不履行は債務者に帰責(落ち度)があるトラブルですが、債務者に責任がない紛争もあり得ます。例えば、家を買って代金を払ったが、売主が家を明渡すまでに大地震で倒壊してしまった、などの事例です。この場合は民法危険負担の定めによって解決します。
 売主にとって予想外のトラブルもあり得ます。これまで何の問題もなく使用してきた自分の土地を売却したところ、一部分だけ他人の地所が含まれていた、などです。この場合は担保責任の規定が適用されます。

 もし家を買っておカネは支払ったが、家の引き渡し(例えば、家の鍵をもらう)前に地震で倒壊した場合、どうなるでしょうか。論理的に考えれば、買主は土地代金だけを支払い、倒壊し使用不可能となった家屋代金は売主から返してもらうなど、解決法はいくつも考えら得ます。
 しかし近代民法は、このような状況が発生した場合、危険負担の法理により危険は買主が負担する、つまり売主は一銭も返還する必要は無い、と定めています。
 銀行から長期間のローン契約を結び、ようやく手に入れたマイホームが入居までに廃墟となれば、これほどの悲劇はありません。現実問題としては、このようなリスクを回避するため売買契約上に「物件の引き渡しと共に所有権が移転する」との条項を加え、契約上の権利として買主を保護するのですが、そもそもなぜ民法が危険負担を買主に負わせたかといえば、市民革命後、民法が形成された当時、「家を手放すほうが弱者であった」との事情が関係していた、といわれています。
 市民向けの銀行ローンなどが存在しなかった当時、不動産を購入するのは資金を持つ有産階級であり、家を手放す窮民は保護される必要があったのです。もはやこのような規定は適用力なく、「買主の危険負担」は、「売主の危険負担」もしくは「新しい紛争解決の定め」に変更されてもいいように感じますが、200年も前に制定された民法大系を今も堅持するのは、物権債権を支柱とする法秩序とその結果として成立する社会経済秩序がすでに岩盤として固まっているからと思えます。これを呪縛といってもいいかもしれません。


ブルジョワ民法

 人間が社会生活を営むようになってから私人間のトラブルは無数に発生したことでしょう。現在の民法には1044の条文が存在しますが、過去に発生したトラブルの一つ一つが1000条を積み上げたとも言えます。
 物権(所有権)や債権といった概念は、市民革命の渦中から生まれ、民法として大系付けられ、市民の常識として定着してゆきます。市民革命といえば、清教徒革命や名誉革命フランス革命などに代表される一連の近代史における転機ですが、何が転換したかといえば、王制から貴族制へ、貴族制からブルジョワジー(有産階級)政治へ移行した、ということです。

 転換は絶対王制に対する貴族の抵抗として始まりました。絶対王制は王権神授説に支えられており、国王が国政を執る権利は神から与えられ、国土も人民も国王支配に服するというのが当時の社会常識でした。しかし産業革命後、私有財産を蓄積してきた有力貴族や有産階級にとっては、いくら儲けても、「国王の財産に帰属」では都合が悪く、王権は不都合な存在です。これが市民革命を誘発させました。
 政治参加は革命のお題目でしたが、その背後に「所有権は神聖不可侵」つまり所有権絶対私有財産の完全保護を成立させるとのブルジョワジーの利権が関係していたことは明白です。ブルジョワジー政治は、法令により財産権の概念を築き、国家権力による保証を確保し、財産法(民法)の施行により市民の常識も一変してゆきます。

 明治に輸入された日本民法も基本的に当時の財産法を踏襲、「所有権の絶対」思想を継承していますし、「財産権の根底に所有権がある」という考え方は、現在の欧米諸国の基本理念と同一です。
 所有権を根底とする財産権システムとは、とどのつまり資本主義社会に他なりません。日本が市場原理に基づく資本主義国家であることは言うまでもありませんが、「なぜソウか」と言えば、所有権絶対を柱とする民法を社会法典としているから、です。

普遍的価値観を共有する国

 日本を含め西側諸国は「民主主義、法の支配など普遍的価値観を共有する国」というフレーズで団結を強調することがあります。この場合、とかく民主主義(自由選挙や政党制)に視線が向きがちですが、法の支配による普遍的価値観には民法が保証する資本主義との意味合いを随伴しています。これが欠けるといかに民主国家であっても価値観を共有する国とはなりません。

 王制から貴族制へ、貴族制からブルジョワジー(有産階級)政治へと変転してくれば、続いて全市民参加の経済体制と繋がってもいいように思われます。実際ソウなったのですが、少々極端が過ぎたかもしれません。社会主義がこれを受け継いだからです。財産権全てを国家独占として、偏在なく平等に市民に分配するという財産制の急変に市民は順応できませんでした。この結果、財産権制度に関しては、ブルジョワジー政治の民法を使い続けることになりました。

 社会主義思想が生まれた時、有産階級がいかほど危機感を感じたかは想像に難くありません。資産の全てが政府に没収される、考えただけでも鳥肌が立ったことでしょう。その拒否反応も苛烈でしたが、いかに理想が高くとも、実際に市民が適応できなければ意味がありません。社会主義国家は、強圧によって反対勢力を鎮圧できたかもしれませんが、結局のところ市民の生産性と結び付くことができず、自壊しました。

ベーシックインカムと所有権

 そこで思いつくのですが、今、議論されるベーシックインカムのことです。事によるとベーシックインカムが、市民革命民法の次のステップとなるかもしれません。所有権絶対を維持しながら、財産権の均等分配を実現する可能性があります。勿論、ベーシックインカムが国民経済の生産性を見込むことなく実施されれば、社会が衰退することは社会主義と同じです。
 ですが、社会主義失敗の轍を、ベーシックインカム実現の糧とする余地はあると思えますし、資本主義のみが唯一絶対の普遍的価値と決まっているわけでもないはずです。

 とはいえ、簡単なことではありません。ベーシックインカムを考える場合には、立ちはだかる岩盤といかに共生しながら生産性を確保し、円滑に社会適用させるかの見通しを立てねばなりません。その作業に着手するには、概念として所有権に匹敵する○○権という社会規範を生み出すことが求められるように思われます。
 社会主義の轍は、資本主義の論理的支柱である所有権とベーシックインカム社会を成り立たせる○○権の協調社会を喝破できるかに左右する、と諭しているように感じます。

 所有権を半減するだけでもこの作業は、社会常識を一変させるほどの大仕事になるに違いありません。

 

(社会部デスク)