時事旬報社

時事問題を合理的な角度から追って行きます

立憲主義と統治行為:法律の話(3)

砂川事件

 沖縄普天間移設問題は解決の目処が立ちません。素人の私などは、米軍は沖縄本島の約15%にも及ぶ広大な領域を保有しているのですから、沖縄住民が居住する隣接地を避け、人里離れた米軍保有原野の真ん中に移設すればトラブルも少なかったのでは、などと邪推したくなるのですが、ソウ単純ではない何かしらの事情があるのでしょうか。
 米軍基地問題ですが、現在では施設の70%が沖縄に集中しているため、沖縄の問題と受け取られがちですが、戦後暫く基地は日本国中に散在し、新設や拡張に関し住民との紛争が各地で頻発していました。その中でも、在日米軍立川基地の拡張を巡る紛争(砂川事件)は、地域住民、労働者、学生をも巻き込む争議に拡大、更には米軍駐留の合憲性が問われる憲法論争にまで発展しました。


 昭和32年7月、在日米軍立川飛行場の拡張工事を行なうため特別調達庁(後の防衛施設庁)が測量を開始したところ、基地拡張に反対するデモ隊と衝突、一部が米軍基地の境界柵を壊し、立入り禁止域に侵入したとして、日米安保協定に付随する行政協定(後の日米地位協定)違反で7人が起訴されました。
 行政法違反ですので、道交法のスピード違反や信号無視のような単なる行政処分で終わると思われましたが、被告人は米軍が日本に駐留すること自体が戦力不保持を規定する憲法違反である、として行政協定の無効を主張し、一件は憲法論争となりました。
 この時、第一審(東京地方裁判所)は、「日本政府が米軍を指揮できる、できないは関係なく、米軍が国内に駐留する事実は『戦力保持』に相当し、違憲である」とし、「被告全員を無罪」としたので、日米政府は大慌てです。
 日本政府は即座に跳躍上告(高等裁判所を省略)し、舞台は最高裁判所に移ります。判決するためには、米軍駐留の合憲性を判断せねばならず、その判断とはとどのつまり日米安保条約が合憲か違憲かを決めなければならない、ということです。最高裁は追い込まれます。

 同年12月、最高裁はこの事件について判決ではなく、「意見」を表明します。「駐留米軍は、日本政府が指揮管理できる戦力ではないのだから、外国の軍隊は憲法が禁止する戦力とはいえない」と「考え方」を示しながらも、「日米安保条約のように高度な政治性を持つ条約に関しては、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」として合憲違憲判断を回避したのです。法学的に言えば、この時裁判所は、「統治行為論」を採用した、ということになります。
 統治行為により「裁判所は憲法判断をしない」となったため、「違憲」とした原判決(地方裁判所判決)は破棄され、裁判は地裁に差し戻され、被告は罰金2000円の有罪判決(行政処分)となりました。


 統治行為論

 統治行為論とは「国家統治の基本に関する高度な政治性を有する国家の行為については、法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても、これゆにえに司法審査の対象から除外するべき」とする理論のことで、国際的にも認められる法理です。
 しかし砂川事件は、(1)国家の行為に関する国政と裁判所の優劣、(2)条約と国内法の優劣、という二つの問題を社会に提起することになりました。

 (1)については明白です。三権分立は国会(立法)、内閣(行政)、裁判所(司法)を分立させ、相互に抑制・均衡させる国家システムのことですが、三権の中でも国会が優越することは当然です。三権は平等ではありません。国会だけが、その運営者(議員)を国民の選挙によって選出するからです。司法(裁判官や検事)や行政(省庁や地方自治体)は組織であり、組織としての意志決定は内部選抜で昇進した決定権者が行なうのに対し、国会は選挙により選ばれた国民の代表者が担っていますから、主権在民の原則からしても、国政の最終決定権は国会に帰属せねばなりません。

 統治行為論の根底には国民の代表者が下した国家行為は、裁判所が横やりを入れるような筋合いではない、との含意があります。砂川事件に関しては近年、アメリカ側の資料が発掘され当時の駐日大使が外務大臣に外交圧力をかけたなど純粋に法学的な判断とはいえないとの状況もあったのですが、「政府の判断について裁判所はとやかく言わない」との立場には道理があります。

 (2)については、法学的な争いがありますし、国によっても状況が異なります。国家や国民は、憲法、法律(民法や刑法など)、条約等の法規に従わなければなりませんが、それら規律の上下関係(優先順序)はどうなるのでしょうか。政府が締結した条約が国内法と矛盾するなどの状況はあり得る話です。
 日本では法規の優劣は、「憲法」→「条約」→「国内法」の順となると考えられています。その論拠は以下の憲法98条に拠ります。

憲法 第98条)
 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

 憲法が国家としての最高法規であるのですから、いかなるその他の法規(条約を含む)も(日本国が遵守するべき法規としては)、憲法に優越することはありえません。一方、98条1項は、違憲無効となるものとして「法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為」を列挙するのみで、ここに「条約」が入っていないことから、条約は法律と同格ではないと解釈でき、2項に条約遵守義務を併記しているところより、憲法に次ぐ地位を有すると考えられているのです。
 また1981年に日本も加入した「条約法に関するウィーン条約」では、「当事国は、国家として最も重要な法に違反する場合を除き、国内法を条約の義務を負わない理由としてはならない(同条約第27条、第46条)」と定め、条約が国内法に優越する原則は国際的な解釈となっています。

 ということで砂川事件は、日米政府が締結した条約は国内法に優越し、唯一、憲法違反である場合のみその効力を失効させることができるのですが、最高裁判所は統治理論により判示せず、違憲問題を棚上げとしながら行政法違反で結審させた、という構造となっていました。

韓国徴用工問題

 条約の効力に関して先月、韓国の最高裁判所の下した判決が日本で大問題となりました。「元徴用工の個人請求権は、日韓請求権協定に含まれない」との判断は、条約の有効性が問題となったとの点では砂川事件と似ています。
 ただし協定締結が憲法違反であるのかが争われたのではなく、個人の賠償請求権が認められるのかという民事訴訟であるため、砂川事件とは状況が異なります。とはいえ、日韓基本条約(1965年)は、国家間の紛争を解決するため「高度な政治性を有する国家の行為」に相当すると思え、韓国の裁判所が統治行為論を引き出しても良さそうですが、ソウはなりませんでした。
 最高裁判官は13名ですが、統治行為に言及した人は一人もいません。多数派の7名は賠償請求権の存否は問わず、日本企業の不法行為に対する慰謝料請求権は残っているという形で判断し、別の4名は異なる意見から請求権を認め、請求権を否定したのは2名だけでした。
 韓国憲法が条約を超越する立場は日本と同じですが、(韓国)憲法第6条には「条約及び一般に承認された国際法規は、国内法と同等の効力を有する」と規定され、国内法との優先順序は考慮する必要はありませんでした。

 各方面から今後の日韓関係を憂う声があがりました。当然です。日本の常識は韓国の非常識、韓国の常識は日本の非常識といった趣きです。日韓基本条約には、条約の解釈・行使に紛争が起こった場合の措置が記載され、最終的には国際司法裁判所(ICJ)に提訴する定めとなっています。
 素人の私などは、なまじ未消化物を残す外交合意は追わず、早々にICJに訴え、国際的な決着へと持ち込む方がいいように感じます。韓国の同意がなければ開廷しないのがICJの規則ですが、同意しない理由が韓国には求められますし、国際的な紛争として顕在化させ決着させねば、いつまでたっても「完全かつ最終的な解決」には至らない、と思えます。

 「法律は真理を解明するためにあるのではない。紛争を解決するためにあるのだ」が、法格言です。少なくとも日韓請求権協定が締結された時点では、両国は「紛争を解決する」との意志が合致したはずです。日本の立場としては解決済み事案について「アノ時の合意とは別の問題」との提起があったのですから、条約(協定)の本旨とその効力に照らして、韓国最高裁の判決の正当性を国際法廷でハッキリさせない限り、いつまで経っても「解決された」問題を蒸し返すことになりそうです。
 勿論、IJCの裁定は必ずしも日本有利となるとは限りません。どんな判断であったとしても国際法廷の結論に従うと決心することは勇気も必要です。


立憲主義

  さて、憲法です。安倍政権が憲法改正を推進していることは周知ですが、これに対し野党は立憲主義の原則から猛烈に反対しています。立憲主義とは何でしょうか。

 日本国憲法に以下のような一条があります。

憲法 第99条)
 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判管その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う

 この条文は、「誰が憲法を守る義務を負うか(憲法擁護義務)」を定めているのですが、注意したいのが、ここに「国民」が記述されていない、ということです。勿論、同じく憲法12条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と規定していますから、99条に国民が含まれないからといって「国民は憲法を守らなくてもいい」とはなりません。
 とはいえ国民にたいしては努力目標であるのに対し、99条記載の人達は義務ですから度合いが異なります。この99条が存在するため、日本国憲法立憲主義に立脚すると解釈されています。

 99条に記載される人々とは「国政を司る」人々、つまり国家権力を行使する人達を念頭に置いています。「民法の話」で少し触れたように、近代法は新興勢力(有力市民)が牽引して国王の絶対権力を縛る(制限する)ことを目的にスタートしました。
 例え裁判所が国王の執政を憲法違反と判じたとしても、「憲法違反なの。それじゃ、憲法を変えちゃおう」と国王の一存で憲法が好き勝手に改正されてしまえば意味がありません。そこで国家の基本方針たる憲法に国政運営者は平伏す(憲法が許す範囲で国政を治めねばならない=立憲主義)の原則が築かれました。この原則を「国家権力はライオン、憲法はライオンを閉じ込める檻」と表現する人もいます。

 つまり野党は、政府(国家権力)が率先して憲法改正を主導するのは立憲主義からして「オカシイ」と主張しているのです。真っ当な主張ですが、事は少々複雑な問題です。何故かと言えば、三権分立によって(憲法を含め)法律の制定改廃は、国会の権能であり、国会は国民の代表者たる国会議員が執るのですから、結局のところ憲法改正は国会の発議以外に道はないからです。

 もし安倍政権が自分の身勝手な憲法改正を押し通そうとしているのであれば、憲法99条違反。国民の意思を代理しているのであれば、間接民主制の正当な手続ということになるのです。
 法律や条約、条例と異なり、憲法改正だけは国民投票が求められます(憲法96条)。最後は私達の一票で「どうするか」を決めることになります。早ければ来年にも、その決心を求められるかもしれません。これはおそらく国政の重要決定を国民全員の直接投票で決する日本史上初の出来事です。憲法が直接一人一人の肌に触れる最初の機会でもあります。

 新憲法日本国憲法)は、戦後アメリカから押しつけられた憲法と酷評されます。実際、そうなのでしょう。しかし押しつけられた憲法には、欧米が市民革命を通じ紡いできた民主主義を健全に維持する制御装置も編み込まれています。統治行為論立憲主義も民主主義を制御する工夫に他なりません。誰が作った憲法であれ、民主主義の知恵まで否定する筋合いではありません。

 一方、憲法改正に国民がどういう選択をするかはともかく、ライオンを檻に閉じ込めるという近代憲法が育てた機能をしっかり維持できるかどうかは、檻の番人が国民であるという自覚なしに望めるものではないこともまた間違いありません。


(社会部デスク)