時事旬報社

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特別定額給付金(コロナ給付金)とベーシックインカム

 

 特別定額給付金(コロナ給付金)の申請がはじまった。漏れ伝わるところでは、公明党が連立解消をチラつかせ、官邸と財務省の重い腰を引っ張り上げ、全国一律一人10万円の給付を実現した、という。

 パンデミックという不測の大災害が前代未聞の財政出動をもたらした。一度きりの給付であるが、一部論者からはこの際、ベーシックインカム(永続的全国民一律給付制度)を検討したらどうか、との議論がおこった。

 勿論、コロナ給付金とベーシックインカムでは主旨が異なる。しかしパンデミックが長期化し、継続的に給付が繰り返えされるというのであれば、ベーシックインカムの壮大な実験となる。

 常識で考えれば、突拍子もない馬鹿げたことであろう。1億2700万の日本国民全員に10万円を配れば、一度きりであっても13兆円という途方もない予算が必要となる。税収もなく支出だけを増やせば、結局は国民の負担は際限なく拡大、次の世代に借金を背負わし、限界を越えれば国家は破綻する。

 しかしこの正論は一面の真理であるが、議論の余地無く100%正しいとはいえない。バブル崩壊後、政府は特に安倍第二次内閣より大きく「リフレ政策(中央銀行が世の中に出回るお金の量を増やし、人々のインフレ期待を高めることでデフレ脱却を図ろうとする金融政策)」に舵を切り、国民経済の腰折れを回避した。その結果、国の借金は、1000兆円を上回った。

 勿論、この間1000兆円の税収があったわけではない。国債を発行し、1000兆円を用立てたのであった。借金1000兆円で日本経済が破綻したかといえば、ソンなことはない。破綻どころか、借金により経済を立て直したのである。

 バブル崩壊後、1000兆円を何に使ったのかは分らないが、この額は国民全員に毎月10万円を7年間(84ヶ月)支給した額に相当する。仮に全額を定額給付金として支給したのであれば、国民全てが7年間仕事をせずに過ごせた計算となる。

 1000兆円の借金は、国民一人辺り800万円の負担となる。800万円を個人の一世代あるいはその子孫が国全体で返済しなければならないのであれば、喜ぶどころではない。この焦燥感や危機感も正論ではあるが、完全に真っ当であるとは限らない。発行済みの国債の内、すでに40%は日銀が買い戻しているからである。

 1000兆円の内、400兆は日銀が国に持つ債権の扱いとなり、残り600兆円が市場からの借金となる。日銀がその気になれば、全ての国債を引き受け、国民負担を「消す」というマジックもありえる。4月27日、日銀は従来の方針を改め「制限なく国債を購入する」と発表したが、マジックを動員してでも、政府と連携しコロナ非常事態の国民経済を支えるため、必要な資金を供給するとの意思表示である。

 これらマジックは、通貨発行権保有する政府と中央銀行のみが行使しえる術である。しかし注目すべきは、一見禁じ手とみえる1000兆円の借金をもって日本は実際にバブル不況を脱却し、経済を好転させたという事実である。マジックは正当な金融政策でもあるのだ。

 国家予算の10倍もの国債を発行しても不動の日本経済に勇気づけられ、コロナ不況に喘ぐ各国政府をして、大規模金融緩和に安心して乗り出すことができた、との外電もある。(ただし、マジックが通用するのは自国通貨発行のみであり、外貨債務過多は流動性経済危機を招く)

 経済活動を塩漬けしてでも、コロナ禍を沈静させねばならないとの予期せぬ非常事態にこぞって各国政府は日本型経済マジック動員に迫られたが、国民が得る給付は、生産やサービスの対価ではない。いわば国民全員が生活保護あるいは失業保険で「暮らす」という状況である。この状況は、ベーシックインカムを連想させる。

 ベーシックインカムの基本概念は、AIやディープラーニングという技術革新が早晩、人手をもってする労働市場の大半を消失させる、という近未来の大変動を背景とする。運転士や教師、医師や弁護士、更には作曲作詞家や小説家といった従来人間でなければ熟すことが無理とされた領域にもAIは次々に進出していゆく。効率や精度との意味でAIがヒトを凌駕するのは時間の問題とされる。

 これまで技術革新が人手を土台とした古い産業を淘汰してしまえば、新技術が産む新し産業に労働市場をシフトさせれば済んだ。しかしAIは「人間の代わりに機械が行なうこと」それ自体を目的とする技術であるから、必然的に人間の仕事は減少する。

 何の対策もしなければ、時間の問題で行き場のない大量の失業者が発生する。ベーシックインカムは、その時の備えとして、仕事をする・しないに係わらず、無条件に国民全員に最低限の生活を維持できる給付(例えば月額一人10万円の給付)を行なうという制度、考え方である。

 ベーシックインカム社会主義と揶揄する向きもあるが、社会主義は「冨の偏在を廃す」と「働かざるもの食うべからず」を原理としている点で全く異なる。ベーシックインカムは特段富裕層を否定もしなければ、働かざるとも最低限の給付は保証される。

 誰もが消費するだけで生産しなければ、国は破綻する。これも正論であるが、ベーシックインカムの構造からすれば正確ではない。ベーシックインカム時代とは、機械が生産する時代であるからだ。

 従来10人がかりで田んぼを耕し、10俵の米を収穫していたところ、機械が導入され一人で10俵が生産できるとなれば、9人の人手は不要となる。しかし10俵を生産することに変わりは無いので、10俵で10人が食ってゆくことができる。生産性が同じなのであれば、皆で「楽した方がいい」は道理のはずだ。

 論理的には、AIがヒトの仕事を殆ど奪ったとしてもGNPに変化はない。ヒトに代わって機械が生産しているに過ぎない。GNPが変わらないのであれば、国全体で楽したほうがいい。

 勿論、ソウ単純ではない。AIによって人件費が節約できれば、企業は価格を引き下げ市場競争力拡大に勤めるであろうし、国民のほとんどが失業保険で生活するような国家が成り立つとは思えない。国債発行マジックも限界はある。

 とはいえ、無策であってもAI時代は到来する。今回のコロナ給付金は一回限りを前提としているが、半年から一年程度、AI時代の壮大な実験として定期給付を「試す」のも一考ではなかろうか。

 AI時代となれば、ヒトは「仕事をする」ためにAIには出来ない「何か」を見つけねばならない。その「何か」が、近未来グローバル経済の国際競争力を維持する原動力となるにちがいない。

 生きるための最低生活が保証されたとしても、多くは満足しないはずである。ヒトは一層の豊かさを求めるだろうし、「勤労によって社会に参加する」は、人間の本能であるといってもいい。ベーシックインカムで国民から勤労意欲が消失するとは思えない。

 であれば、来たるべきAI時代に追わねばならない「新動力」熟考をこの機会に実験し備えるのも無駄ではあるまい。コロナ禍で、誰もが経験したことがない非日常の社会に向き合うことなった。しかし、非日常が現実に起ることも学んだ。AI時代も大凡現在の常識が通用しない社会であろう。

 非日常を日常とする術を今から備えておかねばならない。

 AI時代に「社会はどうあるべきか」、「ヒトはどう生きるべきか」の予行練習をするゴールデン・タイムが今なのだとすれば、生産に直結しない巨額な財政出動も無意味ではあるまい。

 

(社会部デスク)