平成の世相
セントラルリーグの優勝チームが決まると「今年も終盤」を感ずる。来年には年号が変わるので「平成も終盤」ということになる。日本にとって平成の30年間とはどんな時代であっただろうか。学術的な平成の位置づけについては専門家に任すとして、平成に暮らした小市民の回想をいくつか記録しておこう。
国中が発狂したバブル時代
Aさんの追想である。国内大手企業の子会社(広告会社)に勤務するAさんは、いつものように親会社に営業に出かけた。世はまさに国全体がバブル景気に浮かれていた最中である。営業といってもグループ会社提案の広告企画はほぼ全てソノママ受注となっていたので、気楽なものである。しかしその日に限っては少々様相が異なった。
ひとしきり企画趣旨の説明を聞き、1000万円の見積書を受け取った本社担当者の眉が曇った。「チョッと予算に合わないんです」と零す担当者が続けた一言にAさんは仰天する。
「この企画のままでいいと思うのですが、コレ、3000万円になりませんか」
「予算に合わない」とは「値段が安すぎる」ということだったのである。その場で見積額を1000万円から3000万に修正し、無事「受注」となったのだった。
アノ時、流行病のような熱病に感染し、日本国中で金銭感覚が狂った。不動産価格は急騰し、非常識なまでに値上がりした「持ち家」に、多くが家を諦めた。代わって自動車や趣味、付き合いに大金を使うようになる。恋愛にもカネがかかった。
それでも日本経済は絶好調、仕事もカネも、ロマンスも何の心配もない。永遠に続く、と思われた春を謳歌した。しかしソノ非現実的な熱病が、どれほど社会良識を歪めたのだろうか、と想う。
セクハラって何?
初めて日本でセクハラという用語が使われたのは1986年のようであるが、「セクハラ」が社会に広く認知されたのは平成に入ってからである。平成前期においては、依然として昭和の感覚が残り、「女子社員」に対して、今では大問題となるような行為がまかり通っていた。
当時でも女性の尻を叩けば問題となったが、親が許される範囲(例えば、肩を叩く程度)は、「普通」であったし、女子社員の上司は、適齢期になった部下の結婚相手を紹介することは任務の一つと考えられた。
それでもセクハラの問題意識が世界的に拡大すると企業としても制度的な対策が必要となる。
そのような状勢を受け、某上場企業本社総務部に勤務するB子さんも上司C部長からセクハラ対策を整えるよう指示をうけた。本社勤務社員約2000人の半数が女子社員である。プロジェクトチームを編成、「女性の権利をどうやって守るか」を検討した結果、B子さんが出した結論が、「セクハラシールを全女子社員に配布する」というものだった。
5センチ四方のセクハラシールは、もしセクハラがあった場合、行為者の机にそれとなく貼付け、本人に自戒を求めるために作成され、「シールを配った」ことが周知されれば、セクハラが抑制されるであろうことを期待したのである。
シールは連休前の金曜日、全ての女子社員に配られたが、連休が明け、出社したB子さんは、社内の異変に気がついた。事務所の片隅に人だかりができているのである。
「何事か」をいぶかったB子さんが、人だかりに押し入るとソコは原型も判別困難なほど無数のセクハラシールが幾重にも張り付いたC部長の机があった。
別の話もある。従業員50人程の中小企業総務部に勤めるD子さんの話である。この会社の創業社長はワンマンで知られ、女癖が悪いことでも有名だった。狭い社屋であるが社長室のみが個室で、室内には社長と派遣社員である女性秘書が配置されたが、派遣社員は社長のセクハラをD子さんに訴え、三ヶ月ももたず次々に辞めてゆく。
ある朝出勤したD子さんは、派遣から間もない秘書が突然辞めたことを知った。「またか」の話であるが、この日はチョットした騒ぎとなった。置き土産に秘書は、社長のパソコンにBIOSのパスワードを仕掛けて行ったのである。
Windowsのログインパスワードであれば何とかなるかもしれぬが、BIOSにパスワードを設定されてしまうとハードディスクの情報は諦めるほかない。社内は騒然とするが、D子さんはピンときた。
「チョッと社長スミマセン」と言い、頭に浮かんだパスワードを入力すると、正解だった。そのパスワードとは、「SEKUHARA」であったのだ。
データの放棄は回避できたが、社内にはBIOSパスワードの設定解除・変更できる者はおらず、暫く社長はパソコンを使うため毎回、SEKUHARAを入力しなければならなかった。
ビジネスはタバコから
今では想像もつかないが、かつて人々は喫煙に関し相当寛大だった。路線バスや鉄道、タクシーの座席には灰皿が用意され、喫煙は自由だった。平成に入っても一時期まで旅客機内の喫煙も認められていた(ANAとJALが機内の全面禁煙に乗り出したのは平成11年である)。
事務所で「喫煙しながら働く」はほとんど日常の風景で、役所などでも換気の悪い部屋で公務員がスモッグのようにモウモウとした紫煙の中で仕事するのは当たり前であるだけではなく、机に置かれた巨大な灰皿に吸い殻が山積みとなっているなどは、「仕事に精を出している」とすら感ぜられるほどであった。
おそらく当時の男性社員の喫煙者はほぼ100%であったのではなかろうか。商談の第一歩はタバコから始まるというビジネススタイルがあったからである。応接室のテーブルには来客用の灰皿とタバコが準備されていた。来客者に「まあ一本」とタバコを勧め、備え置きのライターで着火、自らも一本くゆらせながら、おもむろに商談を始める、というのがお決まりのスタイルであったのだ。
この時はタバコが嫌いな人もスタイルに付き合ったはずである。
平成も中盤となるとさすがに副流煙など煙害が広く知れ渡り、応接室タバコは撤去されたが、「まあ一本」スタイルが出来なくなり、商談導入の間が抜けるので多くの企業がタバコに代わってあめ玉を置いた。「まあ一本」の代わりに「まあ一個」となったのだが、アメを舐めながらの商談も定着せず、やがてあめ玉も撤去となった。
韓国は今では日本以上喫煙の制限が厳しいが、15年ほど前までは、喫煙者の肩身が狭くなった日本からすれば、まだまだタバコに寛大であった。その頃、韓国に出張したEさん(50代)の話である。
ソウルからは離れた地方都市に出張したEさん。現地の大衆食堂に入った。大勢がタバコを吸っている。愛煙家のEさんも安心して一本火をつけたが、テーブルに灰皿がない。見るとどのテーブルにも灰皿は見当たらない。灰をどうするのかと観察していると皆、床に直接落としていた。吸い終われば、火の着いた吸い殻をそのまま床にポイ捨てし、靴で踏んづけて火を消すのである。
その時、Eさんはハッとした。「かつて日本もソウだった」のである。
Eさんが小学生の頃(昭和30年代)、多くの大衆食堂は壁の側面と床がタイル貼りであった。客は灰も吸い殻も床に落とし、足で踏んづけて火を消した。店員は店が看板となると、床に散乱した吸い殻を箒で履き掃除した。
その光景を韓国の地方都市で思い出したのである。
タバコが健康に有害であることは十分分っている。それでも何も気にすることなく、どこでも自由にタバコが吸えた、靴で踏んづけて火を消した、「二度と来ることのない」アノ時代をほんの一刻懐かしく嘆美したEさんであった。
社是と気合い
今では流行らなくなったが以前は、どの会社でも社是というものがあった。多くの会社が、毎朝「朝礼」を実施し、社員全員で社是を斉唱、気合いを注入した。
以下は記者の心に残る社是のいくつかである。
・神田にあった中堅会社の応接室には社長直筆の社是が掲げてあったが、そこにはこう書かれていた。
「怒るな。仕事しろ。」
・赤阪に事務所があったとき、隣の会社から社是を読み上げる社員の雄叫びが毎日聞こえてきた。斉唱ではなく、どうやら成績の悪い社員の懲罰として「雄叫び」が義務付けられているようである。日によって3人4人、多いときは10人が雄叫ぶ。
「やります、がんばります、達成します」
・中堅証券会社社員から聞いた話である。この会社では社是の数が半端ではなく、毎朝50程の社是を全社員で斉唱する。社是といっても「おはようございます」、「ありがとうございました」など挨拶会話も発声練習を兼ねて斉唱するのだとのことであるが、その30番目だか、40番目だかで、以下を全員でこれまた「雄叫ぶ」のだという。
「さすが社長ですね」
おそらく当時は、営業マンが取引先で「さすが社長ですね」を連呼して契約をとってきたのであろう。昭和・平成の社員は真面目である。
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日本の近代史で、平成ほど平和で豊かだった時代はない。世情や国際情勢に振り回され人々は右往左往し、ある時は浮かれ、ある時は沈みながらも世界の中で特段、日本は総じて幸せな時期を過ごせた。
今年も残り三ヶ月。ソノ平成も最後の年末が近づく。
(社会部デスク)