コロナ時代のベーシックインカム:科学的社会主義と空想的社会主義
1988年の年末、時代が昭和から平成へと代わる一月ほど前の話である。記者は当時、都内の某経済学部大学院に通っていたのだが、ロシア経済学の専門家二人の立ち話を今でも覚えている。
二人の話題は、 小室直樹氏の著作「ソビエト帝国の崩壊」であった。「するどい内容だ」、「あの一作はよかった」と二人の教授が大層この本を持ち上げていた。これが記者にはとても奇怪に写った。
二人ともソビエト経済の専門家として一角の人物である、そのような研究者が失礼ながらカッパブックスという大衆新書をべたぼめするとは、と不思議であったのだ。
「ソビエト帝国の崩壊」は記者も読んでいたのだが、「世の中には奇想天外なことを云うヒトもいるものだ」との印象で、ノンフィクションというようりはSF小説に類するものだと感じた。
すでに40年以上、米ソ二大陣営による冷戦が続き、資本主義と社会主義の代理戦争は世界中至る所で止むことがない。時には核戦争の危機を招いた。妥協や翻意を知らぬ岩盤両陣営の一角が易々と崩れるとは到底思えなかった。
ところがその翌年、ベルリンの壁は崩壊し、更に2年後にはソビエトそのものが消滅してしまった。今から思えば、ソビエトに行き来していた二人の専門家にはソレが分かっていたのであろうし、また教授としての立場としては、ソレを率先して公言することも憚れたのであろう。
マルクスの僚友フリードリッヒ エンゲルスが「空想的社会主義から科学的社会主義へ」を著わしたのは1880年、この一作の中で彼は、いわゆる空想的社会主義を痛烈に非難する。
今ではただ滑稽なだけのこれら(空想的社会主義者)の空想について、しかつめらしくあら探しをしてまわったり、このような「妄想」にくらべて自分の分別くさい考え方がすぐれていることを主張したりすることは、文筆の小商人たちにまかせておけばよい。われわれはむしろ、空想の覆いの下からいたるところで顔を出しているのにあの俗物たちの目には見えない天才的な思想の萌芽や思想をよろこぶものである。
剰余価値説や史的唯物論は、マルクス主義の土台を支える経済理論である。マルクスとエンゲルスは自分たちが主張する社会主義は、経済学的な論理性より導かれた合理的な「科学」なのであって、自分達以前の情緒的、幻想的、現実逃避的な社会主義を「非科学的」な空想的社会主義として蔑んだのである。
サンシモン、フーリエ、オーエンなどが空想的社会主義として標的となったのであるが、今風に云えば、彼らの主張は「お花畑」なのであって夢物語をいくら謳ったところで、社会は変わらぬ、小説家が面白おかしく「ユートピア」を描けば、読者は喜ぶであろう。しかし絵空事は絵空事なのであって、現実ではない。経済という学問(科学)として成立したマルクス主義の視点からは、多くは小説として描かれる先人達の社会主義ユートピアは、小学生が「月に行きたい」と云っている程度の戯れ言(空想)にみえたのであろう。
「科学的合理性よりプロレタリア独裁社会が訪れ資本主義は消滅、必然的に社会主義の時代となる」、マルクスとエンゲルスは、虐げられながらも地動説を主張しつづけたコペルニクスの心境にも類する正当性を確信していた。
実際、その後プロレタリア革命がおこり、社会主義国家も誕生した。「お花畑」を謳うだけでは、そうは行かなかったのかもしれない。しかし、記者にはマルクス主義一番の失敗は、「空想を顧みなかった」ことと思えてならない。
民衆が蜂起し旧体制を打倒、社会主義国家実現を果たした時、誰もが驚喜したことであろう。しかし時が経てば、多くが「おかしい」と違和感を感じたに違いない。「こんな生活を期待したのではない、、、」、「こんな社会に暮らすはずではなかった」、社会主義国家は、たちまち全体主義国家へと転変、自由も物資も欠乏する。結局のところ、民衆は再び蜂起し社会主義を壊したのである。
資本論に精通する市民など滅多にいるものではない。訳も分からず社会主義にはなったが、事前に社会主義の「暮らし」がいかなるものであるかの共通イメージがあった訳ではない。あったのは経済の公式だけで、公式に変数(数値)を当てはめるのは国家権力であった。
絶対権力者が決めた変数を示し、「コレが社会主義だ」といえば、市民はソレを信ずるほかない。市場原理の自然法則「神の見えざる手」もココでは機能しない。
公式と原理だけでは、上手く行かないことは社会主義の教訓といえる。民意に「到達するべき実社会のイメージ」が曖昧であれば、権力は容易に自らの都合により軌道を修正することができる。イメージは政府が決めてしまう。
資本論を読みこなし数式から社会を創造できない並の万民にとって、そのイメージは小説や映画などの物語や映像を通じ産まれ、自らの想像力(空想)によって実像を育て、「朝起きてから寝るまで、毎日をどう暮らすのか」の心像を築いて行くほかない。共通認識には、小説「ユートピア」は必要なのである。この意味で、空想的社会主義をもっと育てねばならなかった。
マルクスが心に描いた「社会主義での暮らし」とは一体「どんな毎日であったのか」と想う。マルクスは、もっと空想を尽くし「社会主義の暮らし」のリアリティを伝えるべきであった。そうすれば、権力が社会主義を歪めたとしても、「これは社会主義ではない」と市民は即座に方向違いを検知できたはずである。
今、コロナ禍で世界の日常が激変している。いつ完成するか知れぬワクチンや治療薬を待つ間、巣ごもり生活が続く。2年、3年と状況が続くかもしれぬ。「働きたくとも、働けぬ」、「営業したくとも、営業できぬ」事態に、イギリス、スペインではベーシックインカムの検討が始まった。
コロナ禍の巣ごもり生活は、AIに人間の仕事が奪われる近未来を想定するベーシックインカム(全国民が無条件に毎月最低限の生活費を国から支給される制度)時代の疑似状況であるため、実現前倒しの検討が始まったのである。
安倍政権は、コロナ緊急対策費として160兆円を超える財政出動を決定したが、新薬の開発など病魔鎮圧への直接予算はせいぜい5兆円であり、残り大半が商業や生活の維持を中心とする経済活動支援策であることからも、コロナ禍害の「恐ろしさ」の核心がどこであるのかが滲む。
生活苦の蔓延による社会不安を一夜にして解決するために、早期のベーシックインカム導入を望む。地球規模で、ベーシックインカムを実現して欲しい。
しかしその前に、「ベーシックインカム社会で暮らすとは」を全員で空想・協議し、認識を一致させておくべきものと想う。現代貨幣理論(MMI)という原理や数式は自分たちには縁遠いと倦厭してはいけない。原理や数式は二の次なのである。
必要なのは、ベーシックインカム社会で人々は「朝起きてから寝るまで、毎日をどう暮らすのか」を大いに空想し、議論して総意として「そこでの暮らし」のイメージを考え、共通認識を育てておくことである。踏み出す前に共通イメージに高めておくことは、「脱線」の警報装置なのである。もし小説「ユートピア」が出揃えば、万人が、どのユートピアが一番性に合うかを比べる助けとなるだろう。
巨大地震のように、ベーシックインカム社会の到来はもはや時間の問題と思える。それが10年後であるか、50年後であるかは知らぬが、少なくとも(巨大地震と異なり)100年後ではあるまい。
総意なくベーシックインカム社会に突入する、あるいは、競争市場だけを残し、ベーシックインカムを放棄し完全なAI社会に突入してしまえば、地球規模で業火が社会を包んでしまうに違いない。
(社会部デスク)
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著者
松岡 健
呼吸器内科専門医
東京医科大学霞ヶ浦病院(現茨城医療センター) 元院長
丹藤 聡(共著)
時事旬報 編集主幹
本編目次
第1章 呼吸器内科専門医としての戦場報告
新型コロナウイルス(COVID-19)と戦う
医療現場最前線
医療従事者連合軍の死闘
第2章 地球規模の生活防衛戦にどう立ち向かうのか
新型コロナウイルスとベーシックインカム
銃後の国家総動員
第3章 国家存亡の決戦から和平へ
摩訶不思議な「進化」という動力