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コロナ時代のベーシックインカム:科学的社会主義と空想的社会主義

 1988年の年末、時代が昭和から平成へと代わる一月ほど前の話である。記者は当時、都内の某経済学部大学院に通っていたのだが、ロシア経済学の専門家二人の立ち話を今でも覚えている。


 二人の話題は、 小室直樹氏の著作「ソビエト帝国の崩壊」であった。「するどい内容だ」、「あの一作はよかった」と二人の教授が大層この本を持ち上げていた。これが記者にはとても奇怪に写った。

 

 二人ともソビエト経済の専門家として一角の人物である、そのような研究者が失礼ながらカッパブックスという大衆新書をべたぼめするとは、と不思議であったのだ。

 

 「ソビエト帝国の崩壊」は記者も読んでいたのだが、「世の中には奇想天外なことを云うヒトもいるものだ」との印象で、ノンフィクションというようりはSF小説に類するものだと感じた。

 

 すでに40年以上、米ソ二大陣営による冷戦が続き、資本主義と社会主義の代理戦争は世界中至る所で止むことがない。時には核戦争の危機を招いた。妥協や翻意を知らぬ岩盤両陣営の一角が易々と崩れるとは到底思えなかった。

 

 ところがその翌年、ベルリンの壁は崩壊し、更に2年後にはソビエトそのものが消滅してしまった。今から思えば、ソビエトに行き来していた二人の専門家にはソレが分かっていたのであろうし、また教授としての立場としては、ソレを率先して公言することも憚れたのであろう。

 

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 マルクスの僚友フリードリッヒ エンゲルスが「空想的社会主義から科学的社会主義へ」を著わしたのは1880年、この一作の中で彼は、いわゆる空想的社会主義を痛烈に非難する。

 

  今ではただ滑稽なだけのこれら(空想的社会主義者)の空想について、しかつめらしくあら探しをしてまわったり、このような「妄想」にくらべて自分の分別くさい考え方がすぐれていることを主張したりすることは、文筆の小商人たちにまかせておけばよい。われわれはむしろ、空想の覆いの下からいたるところで顔を出しているのにあの俗物たちの目には見えない天才的な思想の萌芽や思想をよろこぶものである。


 剰余価値説や史的唯物論は、マルクス主義の土台を支える経済理論である。マルクスエンゲルスは自分たちが主張する社会主義は、経済学的な論理性より導かれた合理的な「科学」なのであって、自分達以前の情緒的、幻想的、現実逃避的な社会主義を「非科学的」な空想的社会主義として蔑んだのである。

 

 サンシモン、フーリエ、オーエンなどが空想的社会主義として標的となったのであるが、今風に云えば、彼らの主張は「お花畑」なのであって夢物語をいくら謳ったところで、社会は変わらぬ、小説家が面白おかしく「ユートピア」を描けば、読者は喜ぶであろう。しかし絵空事絵空事なのであって、現実ではない。経済という学問(科学)として成立したマルクス主義の視点からは、多くは小説として描かれる先人達の社会主義ユートピアは、小学生が「月に行きたい」と云っている程度の戯れ言(空想)にみえたのであろう。

 

 「科学的合理性よりプロレタリア独裁社会が訪れ資本主義は消滅、必然的に社会主義の時代となる」、マルクスエンゲルスは、虐げられながらも地動説を主張しつづけたコペルニクスの心境にも類する正当性を確信していた。

 

 実際、その後プロレタリア革命がおこり、社会主義国家も誕生した。「お花畑」を謳うだけでは、そうは行かなかったのかもしれない。しかし、記者にはマルクス主義一番の失敗は、「空想を顧みなかった」ことと思えてならない。

 

 民衆が蜂起し旧体制を打倒、社会主義国家実現を果たした時、誰もが驚喜したことであろう。しかし時が経てば、多くが「おかしい」と違和感を感じたに違いない。「こんな生活を期待したのではない、、、」、「こんな社会に暮らすはずではなかった」、社会主義国家は、たちまち全体主義国家へと転変、自由も物資も欠乏する。結局のところ、民衆は再び蜂起し社会主義を壊したのである。

 

 資本論に精通する市民など滅多にいるものではない。訳も分からず社会主義にはなったが、事前に社会主義の「暮らし」がいかなるものであるかの共通イメージがあった訳ではない。あったのは経済の公式だけで、公式に変数(数値)を当てはめるのは国家権力であった。

 

 絶対権力者が決めた変数を示し、「コレが社会主義だ」といえば、市民はソレを信ずるほかない。市場原理の自然法則「神の見えざる手」もココでは機能しない。

 

 公式と原理だけでは、上手く行かないことは社会主義の教訓といえる。民意に「到達するべき実社会のイメージ」が曖昧であれば、権力は容易に自らの都合により軌道を修正することができる。イメージは政府が決めてしまう。

 

 資本論を読みこなし数式から社会を創造できない並の万民にとって、そのイメージは小説や映画などの物語や映像を通じ産まれ、自らの想像力(空想)によって実像を育て、「朝起きてから寝るまで、毎日をどう暮らすのか」の心像を築いて行くほかない。共通認識には、小説「ユートピア」は必要なのである。この意味で、空想的社会主義をもっと育てねばならなかった。

 

 マルクスが心に描いた「社会主義での暮らし」とは一体「どんな毎日であったのか」と想う。マルクスは、もっと空想を尽くし「社会主義の暮らし」のリアリティを伝えるべきであった。そうすれば、権力が社会主義を歪めたとしても、「これは社会主義ではない」と市民は即座に方向違いを検知できたはずである。

 

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 今、コロナ禍で世界の日常が激変している。いつ完成するか知れぬワクチンや治療薬を待つ間、巣ごもり生活が続く。2年、3年と状況が続くかもしれぬ。「働きたくとも、働けぬ」、「営業したくとも、営業できぬ」事態に、イギリス、スペインではベーシックインカムの検討が始まった。

 

 コロナ禍の巣ごもり生活は、AIに人間の仕事が奪われる近未来を想定するベーシックインカム(全国民が無条件に毎月最低限の生活費を国から支給される制度)時代の疑似状況であるため、実現前倒しの検討が始まったのである。

 

 安倍政権は、コロナ緊急対策費として160兆円を超える財政出動を決定したが、新薬の開発など病魔鎮圧への直接予算はせいぜい5兆円であり、残り大半が商業や生活の維持を中心とする経済活動支援策であることからも、コロナ禍害の「恐ろしさ」の核心がどこであるのかが滲む。

 

 生活苦の蔓延による社会不安を一夜にして解決するために、早期のベーシックインカム導入を望む。地球規模で、ベーシックインカムを実現して欲しい。

 

 しかしその前に、「ベーシックインカム社会で暮らすとは」を全員で空想・協議し、認識を一致させておくべきものと想う。現代貨幣理論(MMI)という原理や数式は自分たちには縁遠いと倦厭してはいけない。原理や数式は二の次なのである。


 必要なのは、ベーシックインカム社会で人々は「朝起きてから寝るまで、毎日をどう暮らすのか」を大いに空想し、議論して総意として「そこでの暮らし」のイメージを考え、共通認識を育てておくことである。踏み出す前に共通イメージに高めておくことは、「脱線」の警報装置なのである。もし小説「ユートピア」が出揃えば、万人が、どのユートピアが一番性に合うかを比べる助けとなるだろう。

 

 巨大地震のように、ベーシックインカム社会の到来はもはや時間の問題と思える。それが10年後であるか、50年後であるかは知らぬが、少なくとも(巨大地震と異なり)100年後ではあるまい。

 

 総意なくベーシックインカム社会に突入する、あるいは、競争市場だけを残し、ベーシックインカムを放棄し完全なAI社会に突入してしまえば、地球規模で業火が社会を包んでしまうに違いない。

 

(社会部デスク)

 

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著者

松岡 健
 呼吸器内科専門医
 東京医科大学霞ヶ浦病院(現茨城医療センター) 元院長    

丹藤 聡(共著)
 時事旬報 編集主幹

 

本編目次

 

第1章 呼吸器内科専門医としての戦場報告
     新型コロナウイルス(COVID-19)と戦う
     医療現場最前線
     医療従事者連合軍の死闘

第2章 地球規模の生活防衛戦にどう立ち向かうのか
     新型コロナウイルスベーシックインカム
     銃後の国家総動員

第3章 国家存亡の決戦から和平へ
     摩訶不思議な「進化」という動力

 

 

決戦から和平に(コロナウィスル戦争の決着)

 ウィルスの歴史は人類の歴史よりはるかに長く、その起源は地球に生命体が出現した太古にまで遡ります。ヒトと異なり寿命というものが存在しないウィルスの中には、何億、ことによると何十億年と生きながらえているウィイルスの個体があると考えられています。今では電子顕微鏡でウィルスの姿を見ることができるのですが、残念ながらその容姿からは、個々のウィルスが何歳であるかを知る術がありません。

 

 「彼らに寿命がない」というと違和感があるかもしれません。「」あれば、必ず「」が訪れるのが道理のように思えます。ですが生命の進化を眺めれば、寿命は雌雄、つまり男と女の分化以降の特徴なのです。

 

 進化はある時、雌雄を分化させ、その混合によって子孫を残す方が種の存続に有利だと判断し、生物にオスとメスを出現させました。平行して「進化」はお節介にも、子孫を残した個体は(残さなかった個体を含め)一定年限で、その存在を完了させるとプログラムしたので、性有る生物には寿命が運命付けられたのです。

 

 このプログラムは遺伝子の中に組み込まれた「老化」という機能ですが、老化という機能を実現するためには相当高度なプログラムが必要となります。下級な生物では、とても手が出ないプログラムです。したがって単純な機能しかない生命体は、ウィルスに限らず、細菌でも微生物でも、食料がなくなったとか、紫外線を浴びたとか、外的要因で死ぬことはあっても、「寿命」によって死ぬことはないのです。

 

 

 人類にとっては生命の大先輩であり、地球に暮らす先人であるウィルスですが、彼らもまた自分達の種を維持継続しようと必死であることは間違いありません。ウィルスもしくはウィルスの祖先は、動物の細胞に侵入して生活するほうが都合が良いことを彼らの長い経験から学びました。種として存続するための知恵です。特に宿主として好んだのが鳥類でした。

 

 ウィルスに意識があるかは知りませんが、飛行する鳥の広域な活動範囲に便乗して、彼らの勢力圏拡大を目論み、あえて鳥を好んだのだとすれば、鳥よりも人間の方が、もっと魅力的に映ったとしても不思議ではありません。なんせ、この世界の至るとこに増殖し、桁違いの個体数を持ち、技術革新を実現、鳥よりも数段高速、広域に移動できる動物は人間以外にはないのですから。

 

 実際、新型コロナウィルスはわずか半年余りで、世界200ヶ国進出に成功したわけですから、正しい判断といえます。鳥や他の動物に宿るのであれば、こうは行かないでしょう。ウィルスがヒトに惚れ込むのも当然なのです。

 

 

 ここまで私たちに溺愛されてしまうと、「こっちには、その気が無いから、近づかないでくれ」と言っても一筋縄ではゆきません。考えられる対策は二つしかありません。ともかく相手が嫌うことをどんどんやって、終には愛想を尽かし、「去る」ように仕向けるか、「結婚はできないが、お友達としてなら」程度で上手く付き合ってゆくか、です。

 

 

 細菌と異なりウィルスには治療薬というものが殆どありません。タミフルリレンザなど数少ない抗インフルエンザ・ウィルス薬が開発されたのも僅か15年程前のことです。インフルエンザとの付き合いは、人類の起源にも遡ります。太古から今に至るまで、時には深刻な打撃を受けながらも、「お付き合い」は続いているのです。

 

 対策に追われる各国政府の中には、見えざる敵との「戦争状態に突入した」と宣言し、疫病壊滅へ国民意識の高揚を求めています。しかし人類とウィスルとの過去を振り返れば、同居人としてこの星で暮らす生命体としてのお付き合いを「壊滅」できるようには思えません。せいぜい棲む場所を分け、行き来を断つ程度がいいところではないでしょうか。

 そもそも平和的に棲み分け共存していた、ウィスルの領土を侵し、人類社会に呼び込んでしまったのは人間そのものなのですし、ワクチンも治療薬も領域への侵入を防ぐ、垣根に他なりません。

 

 

 「勝つか負けるか」ということよりも、いかに「和平へと導けるか」が、現実的な終り方と考えるべきともいえます。

特別定額給付金(コロナ給付金)とベーシックインカム

 

 特別定額給付金(コロナ給付金)の申請がはじまった。漏れ伝わるところでは、公明党が連立解消をチラつかせ、官邸と財務省の重い腰を引っ張り上げ、全国一律一人10万円の給付を実現した、という。

 パンデミックという不測の大災害が前代未聞の財政出動をもたらした。一度きりの給付であるが、一部論者からはこの際、ベーシックインカム(永続的全国民一律給付制度)を検討したらどうか、との議論がおこった。

 勿論、コロナ給付金とベーシックインカムでは主旨が異なる。しかしパンデミックが長期化し、継続的に給付が繰り返えされるというのであれば、ベーシックインカムの壮大な実験となる。

 常識で考えれば、突拍子もない馬鹿げたことであろう。1億2700万の日本国民全員に10万円を配れば、一度きりであっても13兆円という途方もない予算が必要となる。税収もなく支出だけを増やせば、結局は国民の負担は際限なく拡大、次の世代に借金を背負わし、限界を越えれば国家は破綻する。

 しかしこの正論は一面の真理であるが、議論の余地無く100%正しいとはいえない。バブル崩壊後、政府は特に安倍第二次内閣より大きく「リフレ政策(中央銀行が世の中に出回るお金の量を増やし、人々のインフレ期待を高めることでデフレ脱却を図ろうとする金融政策)」に舵を切り、国民経済の腰折れを回避した。その結果、国の借金は、1000兆円を上回った。

 勿論、この間1000兆円の税収があったわけではない。国債を発行し、1000兆円を用立てたのであった。借金1000兆円で日本経済が破綻したかといえば、ソンなことはない。破綻どころか、借金により経済を立て直したのである。

 バブル崩壊後、1000兆円を何に使ったのかは分らないが、この額は国民全員に毎月10万円を7年間(84ヶ月)支給した額に相当する。仮に全額を定額給付金として支給したのであれば、国民全てが7年間仕事をせずに過ごせた計算となる。

 1000兆円の借金は、国民一人辺り800万円の負担となる。800万円を個人の一世代あるいはその子孫が国全体で返済しなければならないのであれば、喜ぶどころではない。この焦燥感や危機感も正論ではあるが、完全に真っ当であるとは限らない。発行済みの国債の内、すでに40%は日銀が買い戻しているからである。

 1000兆円の内、400兆は日銀が国に持つ債権の扱いとなり、残り600兆円が市場からの借金となる。日銀がその気になれば、全ての国債を引き受け、国民負担を「消す」というマジックもありえる。4月27日、日銀は従来の方針を改め「制限なく国債を購入する」と発表したが、マジックを動員してでも、政府と連携しコロナ非常事態の国民経済を支えるため、必要な資金を供給するとの意思表示である。

 これらマジックは、通貨発行権保有する政府と中央銀行のみが行使しえる術である。しかし注目すべきは、一見禁じ手とみえる1000兆円の借金をもって日本は実際にバブル不況を脱却し、経済を好転させたという事実である。マジックは正当な金融政策でもあるのだ。

 国家予算の10倍もの国債を発行しても不動の日本経済に勇気づけられ、コロナ不況に喘ぐ各国政府をして、大規模金融緩和に安心して乗り出すことができた、との外電もある。(ただし、マジックが通用するのは自国通貨発行のみであり、外貨債務過多は流動性経済危機を招く)

 経済活動を塩漬けしてでも、コロナ禍を沈静させねばならないとの予期せぬ非常事態にこぞって各国政府は日本型経済マジック動員に迫られたが、国民が得る給付は、生産やサービスの対価ではない。いわば国民全員が生活保護あるいは失業保険で「暮らす」という状況である。この状況は、ベーシックインカムを連想させる。

 ベーシックインカムの基本概念は、AIやディープラーニングという技術革新が早晩、人手をもってする労働市場の大半を消失させる、という近未来の大変動を背景とする。運転士や教師、医師や弁護士、更には作曲作詞家や小説家といった従来人間でなければ熟すことが無理とされた領域にもAIは次々に進出していゆく。効率や精度との意味でAIがヒトを凌駕するのは時間の問題とされる。

 これまで技術革新が人手を土台とした古い産業を淘汰してしまえば、新技術が産む新し産業に労働市場をシフトさせれば済んだ。しかしAIは「人間の代わりに機械が行なうこと」それ自体を目的とする技術であるから、必然的に人間の仕事は減少する。

 何の対策もしなければ、時間の問題で行き場のない大量の失業者が発生する。ベーシックインカムは、その時の備えとして、仕事をする・しないに係わらず、無条件に国民全員に最低限の生活を維持できる給付(例えば月額一人10万円の給付)を行なうという制度、考え方である。

 ベーシックインカム社会主義と揶揄する向きもあるが、社会主義は「冨の偏在を廃す」と「働かざるもの食うべからず」を原理としている点で全く異なる。ベーシックインカムは特段富裕層を否定もしなければ、働かざるとも最低限の給付は保証される。

 誰もが消費するだけで生産しなければ、国は破綻する。これも正論であるが、ベーシックインカムの構造からすれば正確ではない。ベーシックインカム時代とは、機械が生産する時代であるからだ。

 従来10人がかりで田んぼを耕し、10俵の米を収穫していたところ、機械が導入され一人で10俵が生産できるとなれば、9人の人手は不要となる。しかし10俵を生産することに変わりは無いので、10俵で10人が食ってゆくことができる。生産性が同じなのであれば、皆で「楽した方がいい」は道理のはずだ。

 論理的には、AIがヒトの仕事を殆ど奪ったとしてもGNPに変化はない。ヒトに代わって機械が生産しているに過ぎない。GNPが変わらないのであれば、国全体で楽したほうがいい。

 勿論、ソウ単純ではない。AIによって人件費が節約できれば、企業は価格を引き下げ市場競争力拡大に勤めるであろうし、国民のほとんどが失業保険で生活するような国家が成り立つとは思えない。国債発行マジックも限界はある。

 とはいえ、無策であってもAI時代は到来する。今回のコロナ給付金は一回限りを前提としているが、半年から一年程度、AI時代の壮大な実験として定期給付を「試す」のも一考ではなかろうか。

 AI時代となれば、ヒトは「仕事をする」ためにAIには出来ない「何か」を見つけねばならない。その「何か」が、近未来グローバル経済の国際競争力を維持する原動力となるにちがいない。

 生きるための最低生活が保証されたとしても、多くは満足しないはずである。ヒトは一層の豊かさを求めるだろうし、「勤労によって社会に参加する」は、人間の本能であるといってもいい。ベーシックインカムで国民から勤労意欲が消失するとは思えない。

 であれば、来たるべきAI時代に追わねばならない「新動力」熟考をこの機会に実験し備えるのも無駄ではあるまい。コロナ禍で、誰もが経験したことがない非日常の社会に向き合うことなった。しかし、非日常が現実に起ることも学んだ。AI時代も大凡現在の常識が通用しない社会であろう。

 非日常を日常とする術を今から備えておかねばならない。

 AI時代に「社会はどうあるべきか」、「ヒトはどう生きるべきか」の予行練習をするゴールデン・タイムが今なのだとすれば、生産に直結しない巨額な財政出動も無意味ではあるまい。

 

(社会部デスク)

感染率、陽性率、死亡率、抗体保有者率:新型コロナウィルス蔓延の実情を読み解く指標は?

 

 政府は4日、対象地域を全国としたまま、今月31日まで緊急事態宣言を延長することを決定した。全国緊急事態宣言発令より3週間、そろそろ外出自粛の効果が数字となって現れるはずなのであるが、ここ最近、その「数字」に関し様々な議論が沸き起こっている。

 

感染者数(感染率)

 新型コロナウィルスの発生以来、その蔓延を推し量る指標の中心は、感染者数推移であった。感染者数とは、いうまでもなく新型コロナウィルスの「保菌者数」との意味で、重症者、中・軽症者さらには無症状者を含む数である。

 

 目下のところ、その検出はPCR法に拠る。5月4日現在、世界の感染者総数は350万人を超え、最大の感染国はアメリカであり、すでに110万人を上回った。次いでスペイン、イタリアが20万人以上、続いて欧州主要国で10万人を突破といった状況であり、日本は約1.5万人、世界順位でいえば31位となっている。

 

 人口比に対する感染者の割合が感染率である。国内でいえば感染者数ワースト1位は東京だが、感染率ワースト1位は福井県となる(2020.4.6)。この感染率が全人口の7割程度に到達すると、病魔を凌いだ人々に集団免疫が形成され、蔓延は終息に向かうとされる。

 

 ヒトから移される割合が感染率であるが、感染者がヒトに移す割合を基本再生産数という。統計学上、基本再生算数が「1」以下、つまり一人の感染者が新たに伝染させる人数を一人以下に抑えることができれば蔓延は終息できるとされる。

 

 (日本の)新型コロナの拡大阻止に中心的役割を担ってきた厚労省 クラスター対策班が最も重視した政策が、この「基本再生産数1以下」であり、PCR検査もクラスターの洗い出しと拡大阻止を目的に優先実施されてきた。

 

 ところが国内において、特にこの一ヶ月、感染者数推移や感染率を基礎とする実体把握を疑問視する声が高まる。(1) PCR実施数が極めて限定されており、新型コロナ蔓延の実情を反映していない、(2) すでに経路不明の感染者が激増しており、クラスター対策班の初期政策は行き詰まっている、がその理由である。

 

 以下は、東京都が実施したPCR検査数と感染者数の一例である。

 

○2020.4.21(火)~27(月)までの東京都PCR検査実施結果

      PCR検査人数   陽性者数

4月21日   276         123

4月22日   167         132

4月23日   233         134

4月24日   470         161

4月25日   289         103

4月26日   272         72

4月27日   314         39

 

 この期間実施された日毎のPCR検査は200~300程度であり、東京全体の実施数としては、仰天するほど少ない。この限られた検査結果より100人を「超えた超えない」に一喜一憂するのは無意味なように思われる。

 

陽性率

 そこで一部識者から感染者数ではなく、陽性率を重視するべきだとの主張がなされる。陽性率とは検査数に対する感染者の割合である。検査の絶対数が少ない場合でも、陽性率が向上している事実があれば、市中感染が拡大していると推計できる。

 

 東京都の2月、3月初旬の陽性率は0~7%であった。しかし3月15日からの一週間は16%に急上昇し、22日からの週は32%、4月12日からの週は63%に及ぶなど、陽性率は拡大を続ける。

 

 感染者数は同一水準であったとしても、PCR検査の実施が限定されており、感染経路不明の陽性者比率が増大しているのであれば、潜在的な市中感染が拡大していることを意味する。

 東京都は正にその条件に適合する。しかし陽性率の増加は東京に感染者が蔓延していることを示唆するのみで、その実体を知ることができない。

 

抗体保有者率

  そこで緊急に不特定多数の抗体検査実施を求める声が高まっている。ウィルスに感染し、体内に抗体が出来たヒトの比率が抗体保有者率であるが、特定サンプル数の抗体率を調査すれば、統計学的に一定地域の感染者数を割り出すことができる。

 

 抗体検査は抗原検査(PCR検査を含む)に比較すると簡便であり、単価も安いため大量検査向きである。先月末(2020.4.24)、米ニューヨーク州が無作為に選出した3000人に抗体検査を実施したところ、14%が抗体保有者であるとの結果となった。州の人口に換算すると270万人の感染者が存在することを意味する(ニューヨーク州の公式感染者数は、26万3000人である)。

 

 声に後押しされ厚労省も先月、実体を見定めるため不特定数千人を対象とする抗体検査を実施することを表明したが、未だその結果はおろか、実施に着手したとの公表もない。

 今月(2020.5.3)神戸の病院が、新型コロナ以外の理由で受診した患者1000人に抗体検査を実施したところ、3%から抗体が検出された。神戸の人口は153万人であるから、4.6万人程度の感染者が存在すると類推される。 


 病院単独でも出来るような感染調査である。政府が全国的に、東京都が都内を対象に調査するのも造作無いと思われるが、腰が上がらない。たとえ都内感染者が100万人と暴露されたとしても、もはや国中パニックとなる程ではない。何を理由に躊躇しているのか全く不可思議である。

 

死亡者数(死亡率)

 現実を直視する最後の指標が死者数(死亡率)である。識者曰く、最もごまかしにくい指標である。死亡診断は、医師、病院として医事行政が定める所定の手続に基づき処理され、速報性もある。

 

 本日(2020.5.4)時点、国内の感染死亡者は、536人である。この数は、アメリカの6.8万人、イギリス・イタリアの2.8万人、スペイン・フランスの2.5万人と比し、格段に少なく、適切な対応によって感染拡大を有効に管理したとされるドイツの7000人よりも優秀である。もし、この水準で新型コロナを切り抜ければ、日本は相当善戦したとしてもよさそうである。


 しかし本当にそうであろうか。統計に現れない死亡者は無いのであろうか。変死者の中には、死亡後感染が判明する事例もあるが、警視庁は先月末(2020.4.26)、自宅や路上で容態が急変して死亡、死後に感染が判明した変死事案は、全国で15件であったと発表した。


 不審死が激増していれば、情報は漏れ出てくるであろうから、コロナ死536人を疑う理由はない。とはいえ、油断できるものでもない。3月26日時点、1000人足らずの全米の感染死者が、わずか10日後には1万人を超えたという先例を日本も警戒せねばならない。


 一体、536人は薄氷の上の数値なのか、手堅い道理に基づく数であるのだろうか。


 死亡者の絶対値は指標となるが、国内総感染者数に対する死亡者の比率である死亡率が、限定実施のPCR感染者を分母とする限り、実情評価の役に立たないことは言うまでも無い。

 

(社会部デスク)

国民全員に新型コロナウィルス抗体検査の実施を求める(保留):付記

 ワクチンも特効薬もない現状で、新型コロナウィルス拡大を回避する有効策は「感染しない」であり、そのためには「感染者(感染場所)には近づかない」が鉄則となる。

 政府が発令した緊急事態宣言も「外部との接触を断ち、家に籠れ」を骨子とする。しかしその程度と期間には限界があり、結局のところ感染者と非感染者そして耐性者(免疫者)を区別できないかぎり、ウィルス隔離の決め手とはならない。

 

 前号で触れたように(1)億単位の国民全員を対象とし、(2)医療機関の助けを必要とせずに(自分自身で行える)検査方法としては、抗体検査(抗体検査キット)に頼る他ない。

 しかし、このウィルスに関しては、抗体検査についても一筋縄ではゆかない課題があるようである。

 

 抗体検査の大きな可能性については、各国がすでに注目している。米食品医薬品局(FDA)は、一定の基準を満たせば事前承認なしに抗体検査の開発を行えるようにし、すでに70社以上がエントリー、トランプ大統領も「4月末までには2000万の新たな抗体検査キットが供給できる」と表明した(2020.4.17)。

 イギリスも「免疫パスポート構想」を発表、社会活動を制限なく行なう資格保有者としての「免疫証明書」の発行を検討している。

 WHOも抗体検査を促進するため、各国連携の国際研究「ソリダリディⅡ」を計画、日本でも抗体検査調査費用として今年度補正予算案に約2億円を盛り込んだ。

 

 論理的に考えれば、抗体検査は唯一の現実策といえるのであるが、問題はその信憑性と有効性である。

 すでに各国のベンチャー企業等から抗体簡易検査キットが販売され、中国政府が認可した抗体検査キットだけでも8種類が存在する。しかしその信憑性については、疑問が残る。

 

 オックスフォード大学は、イギリス政府が発注した1750万本の検査キットを調査したところ、精度については「当局と合意した基準に合わない」と結論した。FDAも70社の検査キットの精度はバラバラであるとして、使用を一部の医療機関に限定している。

 国立感染症研究所(日本)は、市販の抗体検査キットを使って感染者の検査を行なった(37症例87検体)ところ、発症1週間後の患者であっても陽性結果は2割(本来であれば、10割でなければならない)との結果に終わった(2週間後であれば、大方が陽性結果となった)。

 

 PCR検査にも精度の問題はある。精度は、感染者を正しく陽性と判定する「感度」と非感染者を正しく陰性と判定する「特異度」よって計測されるが、PCR検査の場合、一般的に感度は70%、特異度は90%程度とされる。

 

 ところが抗体検査キットの場合、未だ精度の定説がみられない。いずこかが開発した抗体キットが正確かどうかは、実際の感染者で判定すれば、簡単に確かめられる。感染者100人に試し、陽性100%であれば完璧なキットである。70%であっても実用品といえるだろう。にもかかわらず、抗体検査の精度がはっきりしないということは、検査法としては信頼性を未だ定められない手探り状態にある、とのことであろうか。

 

 にもかかわらず、感染有無の大量判定との意味で、医療従事者に負荷をかけない簡便性・即時性との意味で、自由行動が許される耐性者を判定するとの意味で、抗体検査の価値は捨てがたい。一刻も早い実用化が望まれる。

 

 すでに様々な企業・機関から試作品が発表されている。国民全員にガーゼマスクを配布する466億円があるのであれば、キットの実用化に投資するべきではないか。国民全員に10万円を届ける13兆円の予算を編成するのであれば、1000億円でも、1兆円でも、キット完成にカネを使うべきではないか。

 

 武漢集団感染で、中国政府がわずか10日間で更地から1000床の巨大病院を建設、稼働させたのは2月3日、ほんの三ヶ月前のことである。2月3日、国内の感染者は20人足らずであり、「さずが一党独裁の国」と対岸を嘲笑できたのであるが、その嘲笑が羨望とならねばよいが。

 

(社会部デスク)

 

国民全員に新型コロナウィルス抗体検査の実施を求める(保留)

 

 

 わずか半年前であれば、世界がこのような非常事態となると予測できた者はいまい。中国は、人口一千万の省都武漢を封鎖した。欧米各国も外国からの入国制限、外出禁止を強行した。安倍首相もついに7日、緊急事態宣言を発令、前代未聞の緊急措置に踏み切った。

 国内で実施されるPCR検査が少ないことは、この問題の発生当初から国論を二分していた。ウィルス検査は目下、PCR検査(核酸増幅法)と呼ばれる微量の検体のDNAを増幅し高感度で検出する手法を頼りとする。

 PCR検査はクラミジアやウィルスなど、光学顕微鏡では確認できない病原体の有無を調べるための有効な検査方法であり、すでに確立された手法であるため医療機関や民間検査会社での対応も可能とされるが、厚労省は独自の検査実施基準を設け、重症化リスクが高い対象者のみを限定検査することを方針としており、更には直近まで検査を国立感染症研究所や地方の検疫所、保健所など公的な指定機関に絞っていたため、そもそも膨れあがる検査需要を消化する制度的な対応力がなかった。

 英オックスフォード大学の調査によれば、(2020年)3月20日現在、人口100万人あたりのPCR実施数は、韓国が約6000件、オーストラリア4500件、ドイツ2000件、イギリス1000件などであるのに対し、日本はわずか120件弱と感染拡大が後発であるドイツと比べても17分の1に過ぎない。

 厚労省も公的医療保険適用開始や民間検査機関の参入に門戸を拡大するなど政策転換を進め、検査体制を従来の二倍としたとするが、実施された検査はその「体制」の2割程度が現状である。

 パンデミックを宣言したWHOテドロス事務局長は3月16日の記者会見で「すべての国に訴える。検査、検査、検査だ。疑わしい全てに対してだ」と「検査」を三唱し、各国に「検査で感染者を特定し、隔離措置を徹底すべき」としたことが更に、思うようにPCRを受けられない国内の焦燥感を煽った。

 「疑わしきをあまねく検査、全感染者を隔離」は一見疑いようもない正論であるが、この「一見正論」に対し、一部国内の識者から強力な反論がおこった。その主張は、結果として厚労省の方針を肯定することから、今日では政府、行政はこの反論を「一見正論」に対抗する「真性正論」として受容している。

 「真性正論」とは、「現実問題としては、PCR検査の大幅実施は、新型コロナウィルス蔓延防止に有益ではない」という主張であり、「感染に対する特効薬がない」、「受け入れ医療体制がなければ、多数の感染者が病院に運ばれることによって医療崩壊となる」などを根拠とする。

 武漢やスペインで発生した医療崩壊は、多くの患者が病院に殺到した結果である。この病気は、健康な若年層には危険度が低く、大半が自然治癒するなどの所見によれば、治療法が確立していない無数の感染者を病人として認定することは、「重症者の入院を優先し、死亡者最小を最優先とする」究極的見地から正しくない選択であるとして、日本の選択は合理的なのだ、と一見正論に異を唱える。いわば真性正論は一種の「捨て身術」なのである。

 2020年3月19日付 米CNN WEBニュースは、「肝心なのは、検査体制の不備と感染を生き延びることとは全く別の話なのだ」とし、「やみくもに検査の回数や対象を増やし続けるだけでは、すでに感染した米国数千人の命は救えない」と伝え、一見正論だけでは、現実問題の解決にならないことを力説、捨て身術を援護射撃する。

 一方、日本の医療機関に導入されているCT(三次元X線検査装置)が他国に比べ圧倒的に多い事実をもって捨て身術を擁護する意見もある。日本のCT保有数は100万人あたり107.2台であり、G7平均の25.2台、OECD諸国の25.4台と比較しても桁違いに多い。

 新型コロナウィルスは大方、肺炎を併発し死亡に至る。胸部レントゲンよりも格段に肺炎の早期診断に有効なCTによって、肺炎の重症化を早期に捉え対応することが可能であり、結果として新型コロナウィルスの対策となる。「日本にはCT体制が整備されているのだから、PCR検査を行なわずとも重症化回避の体制はすでに整備されている」がCT論者の主張である。

 万一、韓国が揶揄するように、感染者を隠蔽するためにPCR検査実施を抑制しているのであれば、その反射効果として「肺炎による死者が激増」していなければならないが、そのような事実はない。仮に検出されていない感染者が多数存在しているとしても、CTによってその重症化を押さえ込めるのであれば、PCRをやる、やらないは、方法論の問題にすぎない、といえないくもない。

 しかし集団発生源(クラスター)を掌握し、感染経路線上に存在する「疑わしき」にPCR検査を限定実施、蔓延を阻止し重症者の救命に集中するとの初期政策はもはや失敗したとする他ない。今月6日、東京都で確認された感染者83人の88%が感染経路不明者である。フェーズは代わったのであり、「誰が感染しているのか分らない」ことを前提に次なる対策を講じなければならない。

 「接触者の人数を従来の2割に減ずれば蔓延はピークアウトし、疫病は終息に向かう」というのが緊急事態宣言の目的である。政府は行動制限を取り敢えず一ヶ月とした。しかし一ヶ月の辛抱で問題から解放されるような単純な状況ではない。尋常ではない感染力、無症状や軽度症状者にも宿る第三者への感染能などこの感染症のたちの悪さは、たとえ一時的に発症者数減少へと転換できたとしても、すこしでも油断すれば、パンデミックが再発することを意味する。

 新型コロナウィルスの治療薬(特効薬)ないしワクチン(予防薬)が開発されるまで、蔓延を抑制するためには感染者を隔離せざるを得ず、そのためには「誰が感染しているのか」を特定しなければならない。適格な対策を行なうため、終局的には国民全員の感染検査が求められる。とはいえ、PCR検査を全員に実施するのは現実的ではない。PCR検査は国民全員という規模の大量検査向きではないからである。

 しかし方策はある。最近、話題となる「検査キット」である。ウィイルス感染の判別法は「抗原検査法」と「抗体検査法」に大別される。抗原とはウィルスそのものを意味し、体内に抗原(ウィルス)が存在するかを直接調べるのが抗原検査法である。

 PCR検査は、抗原検査法の一つで、咽頭部などから綿棒で検体を採取しウィルスが存在するかを検査する。その採取には訓練を受けた技能者(医療従事者)が対応せねばならず、綿棒に付着した検体は少量であるので、ウィルスを増殖(培養)する必要があり、検出には精密装置が必要となる。また採取時に医療従事者が感染するリスクがあり、感染対策の防備も必要となる。PCR検査は手間と時間、コストがかかる。

 一方、抗体検査であれば、抗原検査の不便を大幅に解決できる。人体にウィルスが侵入すると、人間の生理現象(免疫系)が侵入者を退治する(毒素を中和する)ために抗体を作り出す。抗体は、血清に運ばれ体内を循環する。この抗体の存在を調べるのが抗体検査法である。

 すでに横浜市大を初め、各国研究機関が新型コロナウィルスの抗体検出に成功したと発表しており、抗体検査キット(簡易検査キット)の市販を開始したメーカーもある。中国においては医療機関であっても検査キットによる検査が中心であるとされる。

 抗体検査が都合がいいのは、その「簡便さ」である。手のひらサイズのキットに付属する針で、指から少量の血液を採取し、キット本体に浸すのみで10分程で結果が判定される。市販品の価格も単価1000円程ですむ。作業に専門性は必要なく、自己採取も可能である。

 抗体は、感染初期に発現するIgMとウィルス中和の体制を整えた後に現れるIgGの二種類が知られており、検査によってIgMが検出されれば、感染して間がないことを意味し、IgMが見つかれば、過去に感染し、ウィルスに抵抗する抗体をすでに獲得している耐性者であることを意味する。ただし、抗体はウィルス侵入の一週間程後に出現するので感染直後の判定はできず、抗体検査の弱点とされる。

 とはいえ、一億、二億といった数量単位に対応できる検査法は、簡易検査キットに委ねる他ないといえ、医療機関を頼らず自ら検査可能であることは大きなメリットである。

 全国民の抗体検査が実施できれば、誰が感染しているかが分らないという社会不安を解消できる。社会活動を検査結果が「感染歴無し」もしくは「症状の無い耐性者」のみに限定すれば、安全に社会活動を復活できる。

 新型コロナウィルスに対抗する有効なワクチンや治療薬がないのであれば、現実的な対策は「隔離と検疫」しかない。しかしいくら緊急事態宣言を発令し、「自宅に籠れ」、「外出するな」を連呼したといえども「家から出ない」自体が目的となってしまえば、的外れである。

 本旨は、「感染しているヒトに近づかない」であり、要は誰が感染しているか分らない限り、本旨を全うできるものではない。そうであれば、無条件に誰もが定期的に検査を受けるべきなのであって、それを可能とする現実的な選択は、目下のところ、全員の抗体検査意以外には見つからない。実務的にいえば、「自宅で家族全員が簡易検査キットで定期的に検査する」である。

 そんなことをしたら「大量の感染者が判明、医療崩壊がおこり、社会は混乱し国が滅ぶ」とし、全量検査の回避を貫いたとしても、「目を閉じ、ヒトがどんどんい無くなっていることに知らんぷりしている」というだけのことであり、滅ぶことに変わりは無い。

 

(追記)2020.4.18

 中国復旦大学(上海)の発表によると、新型コロナウィルスから回復した175人を調査したところ、10人(6%)の患者に関しては、検出可能な「抗体が全く存在しなかった」とする。検出された患者についても、それぞれの患者がウィルスに対して異なるレベルの抗体を作ることが判明した(高齢者と中年者がより高いレベルの抗体を作った)と公表した。

 抗体が見つからなかった10名が「なぜ回復したか」につては、分っていない(推論ととしては、T細胞やサイトカインなど他の免疫系が機能した等が考えらている)。

 

 いずれにしても本社説提言は、新型コロナウィスルが従来の常識通り、「感染すれば抗体を作る」ことを前提としており、その前提が崩れるのであれば、正当性も失うこととなることより、提言は「保留」とさせて頂きます。

 

(編集部)

 

 

 

 

 

 

 

韓国の「死に至る病」(2)

武漢 新型コロナウィスルへの国際支援


 中国外務省の華春瑩副報道局長といえば、日本でもおなじみです。日中の政治問題については、スポークス(ウー)マンとして岩盤のように中国の立場を譲らず、取り付く島もない傑女とのイメージです。


 ところが、武漢から始まった新型コロナウィルスに対する日本の支援・厚情につき、副局長から少々過分ともいえる謝意が表されました。(中国)湖北テレビの質問に彼女は次のように応じています。

 

 「新型肺炎の発生以降、日本では政府をはじめ、社会各界が中国への同情、理解、支援を表明しています。新型肺炎の流行を受けた日本政府は、中国を全力で支持すると表明しました。日本の政府、地方自治体、企業の多くが、マスク、ゴーグル、防護服などを自主的に寄贈しています。
 武漢に届いた物資の箱には、山川異地 風月同天(離れていても繋がっている)や豈曰無衣、与子同裳(不足があれば補い合おう)などの励ましの言葉がありました。私がネットで見た写真には、日本のドラッグストアが"頑張れ武漢"、"頑張れ中国"と掲示している様子がありました。東京スカイツリーは、赤と青にライトアップすることで、武漢新型肺炎に打ち勝つように祈願し、エールを送りました。
 また、一部の国における極端な差別的発言に対しては、日本の厚生労働省の高官が記者会見の中で、"人が悪いわけではなく、ウィルスが悪い"と強調し、日本の一部学校は、保護者に手紙を送り、武漢を差別的に論じないで欲しいと伝えています。
 私と同様に、中国の多くの人々が、日本の人々の暖かい言葉や行動を見ているはずです。感染症との戦いという困難な時期における、他国の人々からの同情、理解、支持に心から感謝し、これを心に刻みたいです。
 ウィルスには感情はありませんが、人には感情があります。感染症の流行は、一時的なものですが、友情は永遠に続くものです。」

 

 この謝意は、今月4日の定例記者会見で表明されましたが、華副局長は更に16日、彼女の個人ツイッターに異例にも日本語で、日本の支援への感謝を伝える念の入れようですから、どうも私たちの方が恐縮してしまいそうです。

 

 ところが、この中国の態度が気に入らず、噛みついた国がありました。隣国韓国です。

 

 反感の骨子を平たく言えば、「日本よりも韓国の方が、中国に支援しているのに、一方的に日本ばかりを持ち上げるのはけしからん」というものです。韓国のマスコミも、この論調に準じ、韓国社会の一般的な「見方」となりつつあります。
 以下は、嫌悪感を極力希釈した、つまり憤慨を自虐的に和らげた中央日報の記事(一部抜粋)です。

 

 

 「韓国の寄付が明らかに多いのに、なぜ日本だけを記憶するのか」--。韓国語と韓国文化に造形の深い中国ネットユーザーが11日、中国SNSの微博にこのような題名のコメントを載せた。新型コロナウイルス感染症の感染拡散事態を受け、韓国と日本は中国に多くの援助をしている。ところが多くの中国人は日本との友情だけを記憶し、韓国の援助は無視しているというのがこの投稿の中心内容だ。
 「感染症は一時的なものだが、友情は末永いものだ」。中国外交部の華春瑩報道官が今月4日、オンライン定例記者会見で述べた言葉だ。華氏は「中国は日本人の温かく良心的な振る舞いに注目している」とし「日本政府と社会各界の理解と支持に感謝する。心に深く刻みたい」と話した。
 各国の支持と同情に言及したりしたが、日本だけを特別に取り上げて感謝の表現を残した。華氏は翌日、防疫物資を支援した21カ国を挙げて韓国にも謝意を表した。だが、日本だけに対する「特別な感謝」とは大きな温度差があった。
 成均館(ソンギュングァン)大学中国研究所によると、5日基準で韓国企業約20社が中国に届けた寄付と救援物資は約8926万人民元(約14億400万円)ほどだ。日本の支援額(4652万人民元)に比べて2倍近く多い。
 韓国は事態の早い段階から繰り返し政府や民間から寄付物品を届けた。日本は韓国よりも小さな規模の援助をしたが、代わりに別のものを追加した。それが「感動と応援」のメッセージだった。
 日本は韓国に劣らず観光産業で普段中国人観光客の比重が大きい。免税店や飲食店など、中国人観光客が多く訪れる日本の店ではマスク着用など新型コロナの感染に注意するよう呼びかける張り紙をしながらも、ここに「中国頑張れ(中国加油)」「武漢頑張れ」というメッセージも添えている。大阪の通りには「ファイト武漢!(挺住武漢!)」という垂れ幕を商店会次元で掲げたりもした。
 韓国にしても日本にしても、両国の援助はどちらも感謝すべきことだ。ただ、韓国は(日本と比べて)ディテールで大きく及ばない。

(韓国が「モノ」だけ送っていたとき「情」を送った…中国を感動させた「隣国日本」:中央日報/中央日報日本語版 2020.02.14 09:08)
https://s.japanese.joins.com/JArticle/262575?sectcode=A30&servcode=A00


 手前味噌の強調を回避するためか、論旨に中国人ネットユーザーの言を拝借していますが、要するに日本の倍も支援している韓国が、中国から日本ほど評価を得ないのは、情の「演出」が拙かったためだ、という主張です。

 

 中央日報ともあろう、韓国の巨大マスコミが何ら憚ることなく、このような記事を公にするとは驚きです。中央日報は、この記事が日本や中国社会に、どのように映るかを考えなかったのでしょうか。

 とどのつまり、韓国の「支援」は、「評価」という「対価が目的であった」となってしまうではありませんか。その対価とは、明白に以下の二つです(少々、意地悪く書きます)。

 

  1.  俺たちの方が、日本より二倍も支援しているのだから、その事実を中国は心に刻め。
  2. その物量に見合うよう中国人は韓国に感謝しろ。

 

  対価を求めるような支援は物理的な形はあったとしても、真心とか友情とは縁遠い存在で、本当の意味での支援ではないでしょう。そもそも何故、日本と比較する必要があるのでしょうか。ハラペコの浮浪児に隣家があんパン一つを恵んだから、コッチは二つだ、と成金が自己満足するに似た滑稽なことです。

 

 勿論、中央日報の記者は、「ソンな意味で書いた記事ではない」と反論するでしょう。しかし、この記事が日本や中国にどう「映るか」ということが問題です。日本の読者からは「ひがみ」と映るのは避けようもありません。当然のことながら、日本が中国へ「支援」する際に韓国を意識することはありません。


 「日本の二倍の支援」ですが、オチもあります。1月30日、新型肺炎で大混乱する武漢に韓国政府はいち早く、「マスク300万枚を支援する」と表明しました。ところが、この政府発表を端緒に韓国内マスクが品不足となり価格が急騰(価格が12倍に高騰)、世論は中国への「マスク朝貢」だと沸騰しました。


 すると韓国政府は前言を撤回し、「マスクは全て中国留学校友総連合会と武漢大韓国総同門会が自発的に準備したものだ」と釈明、つまりは「マスクを調達したのは中国の団体であって、政府は買い集めてはいない、中国への輸送を支援しただけだ」と弁明したのでした。

 

 事ここに至っては、何をか言わん、です。

 

(ソウル通信)