時事旬報社

時事問題を合理的な角度から追って行きます

ベーシックインカム:日本が天国となる日(3)

 前号(3月2日)で大雑把に計算したように、国民全員に無条件で月12万円を支給するというベーシックインカムが、いかに突拍子もない話であるかは明白です。プライマリーバランスなど財政収支を考えれば、議論の余地もないようにも思えます。しかしなぜベーシックインカムが国際的な関心を集めるのかと言えば、AI等の技術革新が早晩、人手を必要とする「仕事」を激減させる現実が迫ってきている事情によります。


 一部識者が主張する「今後20年以内に人間が行なう仕事の90%は消滅する」は、極端な意見かもしれません。ですが、それが半分だろうが、三分の一だろうが激変が避けられない生産社会や労働市場に備えねばなりません。見方を変えれば、仮に現状のまま大失業時代に突入すれば、天文学的な失業保険や生活保護費が必要となり、結局のところ「どうするか」をいつかは、決めねばなりません。今、ベーシックインカムを議論しておくことは、社会の大混乱や矛盾、無秩序や破壊を緩和あるいは予防する処方箋を準備する作業と言えますし、上手い処方箋が見つかり、誰もが「やろう」と同意すれば、日本は天国となるかもしれません。今暫く「天国ニッポン」とはどういう社会かを追ってみましょう。

 

国富の源泉

 

 さて財政問題をともかくとすると、ベーシックインカム最大の懸念は、「人間が怠惰となる」という労働倫理の問題です。「働かずとも、文化的最低限度の生活は出来る」、つまり無職となっても飢死ぬことはない、となれば、多くが「楽をしよう」と考えるのは当然です。「いい仕事を得よう」という動機がなくなれば、「いい大学に入ろう」、「いい大学に入るため、受験予備校に通おう」といった動機も連鎖的に消滅します。しまいには「勉強なんか必要ない」との境地に至るかもしれません。


 通貨発行益などテクニックを多用したとしても、国民の殆どが何もせず、日がな一日、ベーシックインカムで食いつなぎ、「ブラブラしているだけ」ということであれば、国家は存続できるものではありません。金や石油といった地下資源が豊富にあるどこかの国であれば、全国民のブラブラが許されるかもしれませんが、人的資源だけを頼りに今日まで来た日本においては、国民が労働と生産を止めてしまえば滅びるほかないのです。
 、、、と、かくのように話すと正論を主張しているように思われるかもしれませんが、実はこの議論には、ベーシックインカムの本質を考える際の落とし穴が潜んでいます。この主張は半分正しく、半分間違っているからです。


 例えば、10人の労働者が一日かけて商品を一つ生産していたとします。そこに製造ロボットを導入して一日一つの商品を労働者一人でできるようになったら、経営者であれば不要となった9人を解雇して、利益率を向上しようとするかもしれません。

 しかし成果物は維持しながら労働者を解雇しないのであれば、労働者は10日に1度働けばいいという勘定になります。商品がこの会社の独占品で、従来と同じ値段で「売れる」というのであれば、計算上は「10日に一日勤務で給料は同じ」が実現できるはずです。

 技術革新で仕事が激減するベーシックインカム時代の発想には、このような視点も含まれます。この会社の社長を「日本政府」に、10人の社員を「日本国民」とすると、ベーシックインカムの本質が透いて見えてきます。

 


 とはいえ、市場経済の社会では生産の効率化は価格競争に転化しますので、合理化は避けられません。それはそうなのですが、「商品がこの会社の独占品であれば」との前提は、ベーシックインカムを実現するリアリティを予見させます。グローバル時代の今日、資源小国「日本」は、技術やサービスで国際競争力を維持しなければなりません。9人の不要社員が「新規の商品・サービス開発(独占品開発)に投入される」のだ、とすれば、国富を低下させることなく、ベーシックインカムを実現できるのではないか、と思えます。

 

職業倫理

 

 さて、職業倫理の話です。10日に一度勤務で随分楽になります。ですが、ベーシックインカムで「10日に一度も働きたくない」、という人もでてくるでしょう。それがどれほどの割合であるのかは検討もつきません。2000人を対象としたフィンランドの実験(2017年~)でも勤労意欲にベーシックインカムがいかほどの影響をもたらすかは、大きな検証項目となっています。


 最低限の生活を保証するだけですから、「豊かな生活をしたい」という勤労への動機が奪われるわけではなく、大方の人は「仕事をしよう」と考えるとも思えます。ただし、生活のために働く必要は無くなりますから、転職が激増するなどが起るかも知れません。

 


 個人的には勤労という社会参加を捨て、孤高の脱俗を選択する人は、そうは多くないように思えます。昨年、国内の自殺者は22000人を数えましたが、その動機は、家庭問題、経済問題、学校・職場関係であり、殆どが社会生活に関連しています。対人関係に悩み、死ぬほど辛いのであれば、世捨て人となり、人里離れた奥山で仙人生活をする選択もあり得るのですが、大方は社会の中(街中)での死を選らぶことから、人は本質的に社会から隔絶されることを嫌う存在であると考えられ、勤労という社会集団参加の定番を失いたくない、という欲求は本能であるように思えます。

 

 勿論、仕事の絶対数が激減するベーシックインカム時代では就職が困難であるのですが、それは「利益に直結する仕事」がないということで、儲けを伴わない(ほとんどボランティアのような)職務であれば無尽蔵といえ、自ら創出することもできます。


 一銭の稼ぎにもならない業務であっても、10年、20年と継続することによって新しい価値や文化、技術を産むのであれば、日本の国力の次世代の源泉と期待できます。新しい技術の開発のように資金や設備がないとできない自発的職務もあるでしょうが、好きなだけ大学に在学できるようにするなど制度を整えることによって方策はあると思います。


 来たるべきベーシックインカムの制度設計は、そのような視座から組立てねばなりません。

(つづく)

 

社会部デスク

 

 

 

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財務省データ改ざん問題

森友学園加計学園:官僚忖度の無情

 本日、財務省が森友文章の書き換えを認めた。「文書は破棄した」の主張を撤回、その上で国会に提出した文章が改ざんされていたのだから、財務省としては度重なる失態である。しかし何故このようなことがおきたのであろうか。


 森友問題と加計問題は、次の点で本質が似ている。

 (1)共に官邸に対する忖度が行政府をして特定の第三者に便宜を与えた疑義。

 (2)共に教育機関設立に対し優遇があったのではないかとの疑義。


 大会社や官庁の出世の極意とは、「成功はしなくともよい。失敗だけはするな」であるから、官僚としては前例のない冒険は「やりたくない」が基本であろう。にもかかわらず特定私人の便宜や優遇となる無理筋を敢えて通したのであるから、よほど高度なパワーが働いたと考える他無い。言うまでも無くパワーの震源は現在の内閣総理大臣である。


 加計学園理事長は総理の竹馬の友である。森友学園開校には総理夫人が奇妙な形で関与した。二つの問題が同根であろうことは、もはや否定しがたい。

 しかしそれにしても「不思議」、、である。おそらく加計と森友では、首相の「思い入れ」は、桁違いだろうからだ。

 

 昨年5月、首相補佐官文科省事務次官を訪れ、「総理は自分の口からは言えないから、私が代わりに言う」と加計学園獣医学部早期開設を迫ったとされる。国会答弁でも加計問題について、総理は一人称で話す。直接指揮した当事者であることを否定しない。

 しかし森友学園に関しては、自分も妻も関係のない第三者の話と突き放す。対岸の火事であるもかかわらず風に煽れ迷惑にも火の粉が飛び込んでくる、といった風である。

 


 論理的に考えてもこの差異は推測できる。竹馬の友が官僚の岩盤規制により長きにわたり獣医学部新設が阻まれる恨み節は、総理も漏れ聞いていたであろうし、規制緩和アベノミクスの柱でもある。加計は総理の人情と政策が一体化した(少なくとも意識的には)重要政策であったに違いない。

 しかし、いかに愛国教育が総理の思想と符合したといえ、海千山千の森友新設小学校に政治生命をかけるような気合いがあったとは到底思えない。実際総理は森友学園については、ほとんど何も知らなかったとのフシがある。

 


 そこで忖度である。総理が自らのポリシーとして獣医学部設立を切望したとしても、行政機関の長としては固有名詞(加計)を出すこともできず、「何が言いたいかは分るな」的語法で間接伝意すれば、「前例の無い便宜で学園の早期開設」のみが伝令ゲームとなる。

 それでも岩盤を微動だにしなかった文科省については、首相補佐官を送り、直接「加計」を伝えたかもしれないが、財務省には「前例のない早期開設」のみ伝播したのだとすると、森友を加計と混同したとしてもおかしくは無い。

 


 今回の財務省改ざんデータ事件では、財務大臣も関与している可能性がある。邪推を拡大すれば、財務大臣も総理に忖度し、森友を押したのかもしれない。事が公になる前、財務大臣にとって森友と加計を区別できなかったとしても不思議ではない。


 そうだとすると更に一つ不思議が増える。邪推の通りだとすると、総理夫人まで忖度して、森友に特別な便宜を図った、となるからだ。夫人自体は、愛国教育の学園に特別な思い入れがあるとは考えにくい。夫である総理大臣の主義主張を体現する学校であるから森友に加勢したのであろう。しかし加計に比べれば森友など総理にはどうでもいい存在であろうから、夫人がその後、夫の立場を危うくするほど森友に肩入れしてしまったのは、やはり過剰な「忖度」とするべきなのであろうか。


 「主語を言わない、直接的な動詞を用いない、見方によって意味が異なる表現をする」など責任回避話術「永田町会話」に振り回され自殺者まで出したのだとすれば、「朦朧表現は罪だ」といえる。

 

社会部デスク

 

ベーシックインカム:日本が天国となる日(2)

財源をどうするか

 前号で触れたスイスのベーシックインカム国民投票ですが、結局反対多数(77%)で否決されたとはいえ、無条件で全国民に毎月28万円を支給するという前古未曾有の試みでした。スイス政府がその財源をどう工面する予定であったのかについては不勉強なのですが、国際金融総本山のお国柄、全国民を給養しても足る「キャピタルゲイン」があるのかも、などと邪推するのは嫉妬の類いでしょうか。

 しかし産油国でもなく国際金融センターでもない日本では、そうはゆきません。現実を直視しながらベーシックインカム実現の可否を考えてゆかねばなりません。今回から、日本でベーシックインカムを実現するための「リアリティ」を考えてみたいと思います。

 

 

 もし日本でベーシックインカムを実施するとなると月額として「いくら」を支給することが妥当でしょうか。この制度開始の法理を憲法25条に置くとすれば、支給額は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保証する「額」でなければなりません。だとすると希望の党が想定した生活保護費の月額12万円は、一つの目安といえそうです。

 

 大雑把な計算ですが、独身単身者が一人で生活するための最低支出は、概ね以下の辺りではないでしょうか。

  • 家賃      40000円
  • 食費      32000円
  • 電気水道光熱費 15000円
  • 通信費      5000円
  • 被服・美容代      3000円
  • 公租公課           10000円
  • 保険料                 5000円
  • 雑費                   10000円

 (合計)       120000円


 無職であれば税金も最低額でしょうが、NHKを視聴するだけで毎月1260円が必要となるので公租公課で一万円程度は避けられません。またこのご時世で携帯やインターネットのない生活も考えられないので少なくとも5000円の通信費は必要です。病気に備え保険料も欠かせません。憲法25条は、「健康で文化的」生活を保証しているのですから、支出用途自由な雑費一万円が無くなれば文化的生活とは言えなくなってしまいます。

 ベーシックインカムとなれば年金制度は不要となりますので公租公課から年金は外しました。


 月額12万円でも、車がないと生活できないような遠隔地に居住している場合は、この中からマイカー維持費を捻出せねばならず楽な生活ができる支給額ではありません。不足分は仕事をして補えばいいわけですが、ベーシックインカムは近い将来国民全員が従事するべき仕事の絶対数が無くなることを想定しているのですから、「仕事をする」を計算にいれてはいけません。


 ということで、ここでは「国民全員に月額12万円を支給する」を前提に実現可能性を考えてゆきましょう。

 

 単身者月額12万円の生活は余裕がありませんが、夫婦となれば24万となるので幾分か楽になります。また子供が生まれれば、その分増額となりますが、ここでの試算としては、20歳以上の成人は一律月額12万円20歳未満は月額5万円として「実現」を検証します。 夫婦二人と子供二人で、月額34万円。ベーシックなインカムとしては、この辺りが相当であるように思えます。

 この条件で必要な年間財源を試算すると以下の通りです。

 

(試算)

 日本の人口  1億2500万人

 内 20歳未満の人口   2200万人

   20歳以上の人口   1億0300万人


   20歳未満への年間支給額総額  13兆2000億円

   20歳以上への年間支給額総額 148兆3200億円 

 

 必要な財源は、何と年間161兆5200億円に達し、現状の歳入(税収60兆+赤字国債発行40兆)を大幅に上回ります。到底実現可能とは思えません。ですが、もう少し検討を進めましょう。


 「山崎元氏の試算によれば、現在の年金、生活保護費、雇用保険、児童手当や各種控除資金をベーシックインカムに転用すれば、日本国民全員に毎月46000円の支給が可能(前号)」ですので、今のままでも69兆円は確保できます。問題は残り92兆円をどうするか、です。

 ここで現在でも多用される通貨発行益(つまり国債を発行し、日銀が回収するカラクリ)をそのままベーシックインカムに投入すれば、更に40兆円を確保できます。残額は52兆円です。

 さらに消費税1%増額は年間税収2兆円に相当するとのことですから残額を全て消費税で賄うとすると消費税額を26%に引き上げれば、ベーシックインカムの財源を確保できることになります。

 ただしこれは国家の年間歳入を全てベーシックインカムとして国民に給付してしまう計算ですので、国防費や行政サービスを維持する国家予算を勘案すれば、現実問題としては消費税を35~40%とするか、その他の税金を増税するなどしなければなりません。

 

 ソロバンをはじけば、かなり無理な非現実的な話です。ですがポイントは、「ソレデモ、やろう」と私達が決意するのであれば、全面的にリアリティが否定される「大ボラ」ではない、ということです。


 「大ボラではない」ことを前提に次回から財源以外のベーシックインカム実現の課題を追って行きます。


(続く)

社会部デスク

 

ベーシックインカム:日本が天国となる日(1)

 

 

 

 日本国憲法第25条には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあります。戦後、立憲主義(Constitutionalism)を導入した日本では、憲法とは国民が政府を統治するために定めた最高法規であり、「国民が国家権力を縛る」ために存在するのであって、(有力な憲法論によれば)国民には憲法擁護義務は無く、政府執政者(具体的には天皇国務大臣国会議員、裁判管その他公務員)の行為を規律するものだとされています(同憲法第99条)。

 

 この考え方に基づき、国は失業保険や生活保護費の支給など「セーフティーネット」と呼ばれる弱者救済政策を運営してきました。ところが近年、ベーシックインカムという全く異なる視点から第25条の社会保障を実現するべきだ、との意見があらわれました。そこには、ヒタヒタと従来とは根本的に異なる事態が迫っているという事情があります。

 

ベーシックインカム

 

 昨年10月の衆議院選挙に際し「希望の党」は、ベーシックインカム(Basic Income)実現を公約に掲げました。その後希望の党は惨敗したので、この話も立ち切れとなりましたが、この時はじめて、「ベーシックインカム」という聞き慣れない用語に出会った多くの有権者の印象は様々でした。
 ベーシックは「基礎」とか「基本」、インカムとは「収入」とか「所得」との意味ですので、ベーシックインカムは「基礎所得」とか「国民配当」などと邦訳されるのですが、要するに、政府が全ての国民に無条件で毎月、一定額の現金を支給する社会保障制度のことです。失業保険や生活保護と比べると、全員に無条件に配る点が大きく異なっています。

 

 希望の党は、生活保護費を算定基準として国民一人に月額12万円支給を検討するようなことを匂わせました。具体的な制度設計に入る前に惨敗したので、希望の党公約は絵空事と流れてしまいましたが、額面通りに受け取れば、無職でも夫婦二人で24万円、子供が二人いれば48万円支給となる勘定ですから悪い話ではありません。いや、悪い話どころか、一夜にして、この世が天国となる驚天動地とも呼ぶべき快挙です。


 にもかかわらず希望の党は大敗したのですから、多くの有権者は、「そんなことが出来るはずがない」と読んだか、仕事もせずに収入を得ることは不謹慎である、と考えたのでしょう。当の希望の党でも公約に掲げながらPRはごくごく控え目で、自信の無さが漂うあたりは、自分たちでも「そんなことが、、、、」であったように感じます。

 


 荒唐無稽な話と見えるベーシックインカムですが、世界の政界、財界の間では真剣に議論が始まっています。大統領選挙に敗北したヒラリークリントン国務長官は、選挙戦回顧録の中で「財源を確保し、アメリカでもベーシックインカムを導入するべきことを夫(ビル・クリントン元大統領)と検討していた」と明かしています。フェイスブックのマーク・ザッカーバークCEOやテスラ(全米NO1の電気自動車メーカー)のイーロン・マスクCEOも熱心にベーシックインカム導入を主張します。日本では、ホリエモンこと堀江貴文氏(元ライブドアCEO)が強力に擁護し、私財を投入して一部実験を開始したことが知られています。
 政財界でベーシックインカム論議が活発となるのは、急激なICTとAIの技術革新が、従来型の労働市場経済モデルが今後は成り立たなくなるとの危機感があります。

 

大失業時代

 

 自動運転技術が確立してしまえば、トラックやバス、タクシーの運転手は失業です。産業ロボットの進化により無人の工場はすでに珍しくはありません。医療分野では経験を積んだ医師よりも、膨大な医学論文と治験情報、無数の患者臨床ビッグデータディープラーニング(深層学習)した医療AIの方が、正確な診察と治療に貢献するようになりつつあります。高給取りとして花形であった為替・株式ディーラーも今日ではスーパーコンピューターの仕事となりました。作曲や小説の執筆といった人間でなければ不可能と考えられてきた職域にもAIはどんどん進出しています。

 

 生産、物流、教育、文化、社会活動全般に渡り、今後20年以内に人間が行なう仕事の90%は消滅し、現行スタイルで「働く」労働者は、2045年までに全世界の人口の1割程度に激減するとの研究報告もあります。ICTや自動運転の技術革新を進める大企業の経営者からベーシックインカム推奨の主張がわき起こるのも、彼らが思い描く近未来では「如何に労働力が不要となる社会が近づいているか」のリアリティがあるからとも言えます。


 技術革新により旧来の産業が衰退すれば、新技術から生まれる新しい市場に労働人口をシフトさせることがこれまでの国策でしたが、労働力そのものを不要とする技術革新の到来は、発想の異なる新しい政策が求められることを意味しています。「働く必要がない」社会がやってくるのですから、国民が「どう生きるか」、「何をするか」を考えねばなりません。
 ベーシックインカムの議論は、そういった文脈から考えてゆかねばならないのです。

 

財源をどうするか

 

 論理的にベーシックインカムに正当性があったとしても、財源がなければ実現できるものではありません。この点については、いくつかの私案が提案されています。経済評論家の山崎元氏の試算によれば、現在の年金、生活保護費、雇用保険、児童手当や各種控除資金をベーシックインカムに転用すれば、日本国民全員に毎月46000円の支給が可能であり、不足分のみ他の財源を開拓すればよい、とします。

 現在の消費税率8%から35.8%に引き上げることによってベーシックインカム原資を確保できるとの計算もあるようです。中には「政府の通貨発行益で賄う」という奇抜な案もあります。通貨発行益案とは要するに、ベーシックインカムに必要な資金は政府が紙幣を印刷して国民に配ってしまえ、という型破りな方法です。

 

 日本はバブル崩壊後の「失われた20年」に国債を大量発行、公共投資を拡大し、景気の腰折れを回避してきました。この間、政府債務は1000兆円を超え、大量発行した国債の取引価格が暴落し信用不安を引き起こさぬよう、中央銀行(日銀)が市中の国債を回収(買取)、大量の国債を塩漬け(非売品化)し、信用低下を防いできました(現在約400兆円の国債を日銀が保有)。このテクニックは、実質的には政府が通貨発行益で財政を支えているのと同じです。

 

 日本の年間税収(歳入)は約60兆円なのですが、歳出は100兆円となっています。現在でも年40兆円は国債発行(その後の日銀回収)を繰り返している状態です。1000兆円の政府債務とは、全国民に5年間、毎月15万円を支給したことに相当します。「日銀回収で、これまで済んだのであれば、今後は公共投資ではなくベーシックインカム財源としてでも成り立つであろう」との主張に、このテクニックを多用してきた政府としても反論はしにくいでしょう。


 ただし政党別に眺めると、ベーシックインカム推進を提唱しているのは野党のみで、与党の自民党公明党は反対の立場をとっていますので、現実問題としては、ベーシックインカムの法案が具体的に審議される可能性はほとんどありません。

 

職業倫理観

 

 勿論、ベーシックインカムは財源の問題だけではありません。職業倫理観との視点からの議論もあります。働かずとも収入があれば、人間は堕落してしまうのではないかとの懸念です。


 2016年6月スイスでベーシックインカム導入の是非を問う国民投票が実施されました。スイス国民全員に無条件に毎月2500スイスフラン(約28万円)を支給する法案の賛否を問う国民投票です。第三者から見れば、「こんなイイ話はない」と妬ましいほどですが、投票結果は意外にも反対77%の大差で否決されました。勤労意欲の低下がスイスの国際的競争力を奪うと考えた人が多かったのでした。

 

 2017年1月からフィンランドでも2000人を対象にベーシックインカムの実験が始まりましたが、就労観の変化は検証項目の一つとなっています。しかし専門家の一部は心配する必要はないと反論します。「労働する」は人間の本能(欲望)の一種であり、ベーシックインカムが始まれば、「儲けを伴わない業務に従事する人が増える。新しい価値や文化、技術は一銭の利益が無くとも10年、20年と継続するところから生まれることが多く、それが国富の源泉となる」というのです。

 

 

 いずれの主張が正しいのかは分りません。しかし検証に余り時間は費やせないかもしれません。長引けば、10年後、20年後とされる大失業時代が先に始まってしまうかもしれないからです。

 次回はもう少しベーシックインカムの実現可能性を考えてゆきましょう。

 

(続く)
                                 社会部デスク

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鼻血作戦:平昌オリンピックを巡る米朝中韓の駆け引き

北朝鮮にたいする米軍軍事行動はあるか

 

 平昌オリンピック開催が間近となった。新年早々、北朝鮮は異例にも韓国の冬期オリンピック開催に声援を送り、これに呼応した韓国提案の南北共同開催を承諾、IOCも同調・歓迎し、半島情勢に束の間の雪解けが訪れたように見える。


 しかし、観測点を変えれば半島はこれまでにはない緊張状態といえる。それはアメリカが「鼻血作戦(Bloody Nose Strike)」と呼ばれる軍事行動を検討していることが判明したからだ。鼻血作戦という用語自体は外信が命名したようであるが、「先に一発、鼻っ面にお見舞いすれば、顔面血だらけとなった相手は戦意を消失し、以後、コッチに服従する」ほどの含みがある。


 好機を窺い軍事施設等を限定攻撃(空爆巡航ミサイル)すれば、アメリカの本気度にたじろぐ北朝鮮は核放棄の交渉テーブルに出てくる、というのがトランプ政権の読みであるようだ。「全面戦争となれば国が崩壊する北朝鮮は、鼻血を流すだけで反撃しない」に期待する計画である。

 

 いつこの作戦が立案されたのかは分らないが、状況からすると相当以前から周到に準備されてきたように思える。トランプ大統領は就任早々米中首脳会談を開催、北朝鮮問題を相当踏み込んで協議したフシがある。会談後、環球時報が「外科手術」という表現で、アメリカによる北朝鮮限定攻撃容認の論説を公表した(2017.4)のも、協議結果の吐露と思える。つまり、鼻血作戦「的」な着想はすでにこの時から中国との調整事項として議題となり、一定の方向性につき合意していたと考えるのが自然だ。

 

 会談後、アメリカは中国の影響力行使で問題を解決する猶予期間を設けたが、ソレを察知してか、北朝鮮は常軌を逸した頻度での弾道ミサイル発射を繰り返し、核実験を強行した。ところが、昨年11月29日、2ヶ月ぶりとなる弾道ミサイル(火星15)の発射後、エスカレーションは鳴りを潜めた。タイミングは、事態が動かない中国の影響力行使にアメリカがしびれを切らす時期と重なる。そして新年となり「鼻血作戦」が漏れ出てくる。


 この経緯よりすれば、次の挑発行動で北朝鮮は鼻血を流す可能性がある。その切迫感を十分理解するが故に、北朝鮮はオリンピック融和で米韓関係を揺さぶっていると考えれば辻褄が合う。

 

 鼻血で問題解決へと流れれば理想的であるが、当然、そうでない場合の「次の一手」も準備しておかねば、「一発」はできない。次の一手で米中が合意し、協調しているとは考えにくいので、一手はそれぞれの思惑で独自の方策を企てているのだろうが、米中の利益が一致する手であれば、例えば、米軍による外科手術後、同盟国支援目的で人民解放軍北朝鮮に進出、強制的に中国寄りの政権にすげ替える程度の密約はありえる。

 

 鼻血のリアリティは、北朝鮮に中国造反の疑念を強化させる。挑発行動の矛を収めるため火星15号の発射実験をもって、ICBMを完成したと宣言し、核の防壁が完了したことを周知した。つまり、「完成したのだから、もはや実験は必要ない」として事態を取り繕うのだが、そこにはアメリカの一発に加え、中国介入への危機感が漂う。

 

 しかし実験が不十分であるとを北朝鮮も理解しているはずだ。ICBM保有国として国際的な認知をうけるためには、技術的実証と心理的刻印の二つが必要である。そのためには最低限、水平長距離射程による弾道ミサイル発射実験が必要となる。
 いかに暴君といえども、許可も得ずに第三国で核実験を行なえば、一夜にして全世界を敵にし、鼻血どころでは済まなくなるから、長距離水平射程実験は模擬弾頭実験となるはずだ。


 勿論、実験はアメリカ本土や沿岸への着弾は回避するだろうから、水平長距離射程は南太平洋北部(南米沖)辺りを実験場とする可能性が高い。もしペルー遠方沖まで飛距離を伸ばすICBMに成功すれば、例え模擬弾頭といえども全世界の脳裏に「核強国」を刻印できる。少なくも「あと一回、長距離水平射程実験を敢行したい」は、北朝鮮としては事を締めくくるための悲願であるといえる。

 

 結局のところ、安倍首相は平昌オリンピックに出席することになったのであるから、五輪期間中にアメリカが動くことはないのであろう。しかしその後は、鼻血が先か、南太平洋が先か、という状況となる。
 その時どうするか、日本としても態度と覚悟が求められる。

 

【国際部半島情勢デスク】2018.2.7配信

 

 

日韓ビジネス指南(5):韓国企業と付き合うビジネスマン心得

「日本人が知るとビックりする韓国社会」と「韓国人が知るとビックりする日本社会」

 

 

 13日から文在寅大統領が訪中しています。公式訪問であるにもかかわらず中
国側の出迎え(飛行場)が、フィリピン大統領よりも格下であったとかで、韓
国マスコミが一斉に「意図的に冷遇している」を喧伝すると、今度は中国環球
時報(人民日報系列のタブロイド紙)が「両国の関係改善を損なうオウンゴー
ル」と韓国マスコミを揶揄するなど初日から土がついたのですが、翌日には大
統領に同行した韓国記者が中国の警備員から殴る蹴るの暴行を受けるなどでチ
ョッと険悪な雰囲気です。
 日本はといえば、韓国歴代大統領の最初の海外訪問は日本が定番であったと
ころ、朴槿恵大統領より訪日が一度も無く、新大統領の就任後早速中国へ赴く
「状況の変化」を眺める他ありません。
 こと政治に関しては、日韓問題更には日韓朝と米中がもつれる諸問題の出口
が見えず、この変化がどこへ向かうのか予断を許さない状況が続きます。ガタ
ガタやヤキモキ、ハラハラはなす術がありませんが、ソレはソレとして今回も
また日韓の「似て非なる」話題を一つ眺めてみましょう。それは社会という単
位で眺めると、「日本人が知るとビックリする韓国社会」と「韓国人が知ると
ビックリする日本社会」という正反対の風土があるという話題です。この対比
を知っておくことは円滑に日韓ビジネスを進めるための基本知識と言えるかも
しれません。

 

 

日本人が知るとビックりする韓国社会

 

 


 「あなたの200年前のご先祖は誰ですか」。この質問に答えられる日本人
はほとんどいないでしょう。「自分の両親とその両親(祖父)の代までで、そ
の先は分からない」というのが一般的ではないでしょうか。寺の過去帳をあた
るなどしても四代先以前に遡れる家系はよほど伝統的な一族に限定されるはず
です。ところが韓国では、誰もが200年はいうに及ばず300年~400年
と父方の家系を辿ることができます。これは一族の本家が代々族譜を管理、維
持しているからで、1000年前(高麗時代)の先祖も分かっていると答える
韓国人も珍しくありません。

 

 日本は世界でも例外的に苗字が多い国で、その総数は約30万種類なのだそ
うです。一方隣国では金、李、朴の三大姓で人口の半分、全てを数えても29
4というのですから、同じ姓氏を持つ人が日本より格段と多くなります。さら
に韓国では苗字に加え「本貫(ポングァン)」という第二の姓と呼ぶべきもの
が存在します。本貫は一族の出身地を意味するのですが、本貫で繋がる一族
は、父系に沿い子孫の族譜(チョクポ)を本家が管理するのが習わしとなって
います。
 韓国人であれば、ほどんど全員がいずれかの本貫に属し、父系の先祖を容易
に遡れます。韓国民法第809条1号は同姓同本貫の結婚を禁止していたように、
本貫は韓国では重要な社会システムです。809条1号は1997年、憲法裁判所が無
効と判断し、結婚禁止も解除されたのですが、「火事に遭った場合、最初に持
ち出すのは族譜」とされるほど本貫は今でも重要な社会規範であることに変わ
りはありません。韓国では、男女が初対面の挨拶で相手の本貫を確認すること
も珍しくないのですが、そうしておかないと恋愛に発展すると不都合が生じる
オソレがあるのです。

 

 苗字がないと先祖を辿るのは困難です。全ての国民が苗字を持つようになっ
たのが明治以降である日本では、四代先五代先の先祖が分からないのも無理は
ありません。だからといって200年前の先祖が誰だか分からないと卑下する
人もいないでしょう。今日を生きる上で、「何百年も前」はどうでもいい話で
す。しかし韓国では異なります。ここは大きな「違い」です。
 韓国で族譜の作成が始まったのは15世紀末からですが、李氏朝鮮末期には
系図の売買が横行したとのことで、族譜の大半は信憑性がないとの報告もあり
ます。しかし真贋は余り問題ではありません。重要なのは韓国では今でも一族
への「孝」が社会で一番大切な徳目であり、今を生きる世代は先祖を敬い、一
族の血統を繋ぐのが重要な使命だと考えている、ということです。長男であれ
ば一族の祭主として年間十数回も祭祀を行わなければなりません。この祭祀を
切り盛りする長男の嫁の苦労談もよく耳にします。

 

 「仕事が忙しくて親の葬式にも出られなかった」。日本であれば稀に聞く話
です。一部には「それほど仕事に没頭している」ことを自慢する向きもあるほ
どです。しかし韓国でこれをやれば、その人は人間ではありません。
 韓国にシステム開発を依頼したある日本企業が納期切迫を理由に「夏休み」
返上で作業続行を要請したのですが、これが大問題となりました。その日は
「秋夕(チュソク)」だったのです。秋夕は、旧暦の8月15日のことで、一
族が集まり先祖の墓参りをしたり、秋の収穫に感謝する韓国では最も重要な祭
祀です。秋夕に参加しないは、人の道に背く非道徳な行為なのですが、日本企
業の懇願にしぶしぶ韓国企業のスタッフも「夏休み」もとらず開発を続けまし
た。その結果、納期はなんとか間に合ったのですが、後日「プログラムに不備
があった」との日本企業のクレームに韓国企業は大爆発し、両社の信頼関係も
その日をもって崩壊しました。
 夏休みは返上しても、仕事を片付けた後に休めばいいと日本企業は単純に考
えていたかもしれませんが、「仕事が忙しい」は秋夕を逃れる理由にはなりま
せん。秋夕は夏休みではないのです。日本で開催される国際見本市でも、年に
よっては例年参加する中国・韓国企業が極端に少ない、などの椿事も起こりが
ちです。軽率にも開催日を秋夕と重ねてしまったのです。ビジネスといえども
相手国の文化、風俗、国民性に不案内で成り立つものではありません。「親戚
筋との行事よりも仕事が優先」の日本流も通用しません。
 韓国も世代が変わり「新人類」が社会の主軸となりつつありますから、一族
祭祀の伝統も以前ほどは重みがなくなりました。だからといて、国民的伝統に
敢えて挑戦する必要もありません。

 

 

韓国人が知るとビックりする日本社会

 


 さて、続いて韓国人が知るとビックりする日本社会の話題です。奇妙な関係
ですが、韓国人が驚く日本社会の話題は、ちょうど日本人が驚く韓国社会と正
反対の習わしとなります。それは、日本には社歴が100年以上の会社が10
万社以上ある、という事実です。古都を訪ねれば、江戸、明治創業の老舗が商
店街の軒を連ねるなど珍しくありませんが、日本は世界でも飛びぬけて古い企
業が残っている国です。
 世界最古の会社も日本に存在します。金剛組という大阪の神社仏閣建築企業
がそれなのですが、旗揚げはなんと飛鳥時代、西暦578年です。聖徳太子
四天王寺を建立するため百済から招いた宮大工が金剛組を開設以来1400年
の社歴を重ねてきました。ヨーロッパ最古の企業でも設立は14世紀までしか
遡れません。日本にはこのヨーロッパ最古の企業よりも古い会社が100社近
くあるとのことですから、世界最古企業ランキング表を作れば一位から百位を
日本の会社が独占することになります。韓国や中国では100年以上の社歴が
ある企業は数えるほどしかありません。日本と韓国では、社会に受け継ぐ大切
なものとは何か、という社会や人生の価値感が違っています。
 10万社のうち4万5千社は製造業であり、時代の変化に対応し、事業内容
を環境適用しながら今日まで生き残りました。金剛組も2006年経営破たん
し、金剛家の経営する金剛組としては1429年の社歴に幕を閉じましたが、
すぐさま「金剛組を潰しては、大阪の恥」と社歴91年の中堅ゼネコンが再建
に乗り出しました。
 金剛組をはじめとする10万社存続の事実から連想されるのは、日本では一
族という血統のつながりよりも企業をはじめとする社会集団の継承のほうが大
切と思う傾向にある、ということです。日本も韓国も儒教の伝統を持ちます
が、後生に継ぐべき伝統の拠り所が異なります。

 

 韓国では社会に生きる重要な徳目は、親や一族への「孝」ですが、日本では
所属する「家」への「忠」といったものになります。この場合「家」の結束
に、血のつながりは二の次です。男系が断絶しそうになると家督を婿養子に継
がせることになりますが、少し誇張すれば日本では娘が見つけた「どこの馬の
骨」でも頓着しませんが、韓国では同一本貫でなければなりません。この場合
婿養子が娘と結婚すると近親相姦となってしまいますので、婿養子は別の本貫
から娶らねばなりません。
 日本の「忠」は、一家への忠とは限りません。家とは自分が所属する社会集
団ほどの意味で、江戸時代の武士であれば封建領主(殿様)への忠義が一家
の忠よりも当然に優先するものと理解され、現代でもその残響が企業の忠へと
命脈を継いでいます。この意味でいえば、「仕事が忙しくて親の葬式にも出ら
れなかった」も日本的倫理の一片といえなくもありません。
 明治維新後、日本はアジアの中、唯一短期間で産業資本主義国家へと脱皮し
欧米列強を猛追しましたが、それが可能であったのも自分が所属する集団への
忠が、一族一党の利益より優先するという独特の風土があったからだ、との指
摘もあります。つまり、会社を「家」と見做すことに抵抗がない日本では、市
場原理(資本主義原理)の構成要素である会社を育成・発展させるには都合が
良かった、というのです。

 

 

8月15日

 


 韓国だけではなく、日本でも若い世代の勤労観や社会集団に対する考え方も
随分と変わってきています。よもや今では滅私奉公といった観念で就職活動す
る学生もいないでしょう。「知ればビックりする日本(韓国)社会」も、もは
や一種のステレオタイプな韓国観に過ぎないかもしれません。しかし少なくと
も「日本家屋にあがるときは玄関で靴を脱ぐ」程度の大原則を知らねばビジネ
スも上手く行くはずはありません。
 今日では、日本の若いビジネスマンにも8月15日が、終戦日であることを
知らない人が少なくありません。混乱しそうですが、秋夕の8月15日は旧暦
で、新暦に当てはめると毎年日にちが異なります(ちなみに2016年の秋夕
は、9月14日~16日でした)。終戦日の8月15日は、新暦の8月15日
です。
 終戦とはもちろん、日本が戦争に負けた日なのですが、韓国にとっては祖国
が植民地から解放された記念日で、光復節(クァンボッチョル)という祭日と
なります。ですから8月15日は、日本との関係において韓国では特別な一日
です。日本から韓国に、8月15日の休日稼動(勤務)を要請したり、日本で
は祭日ではないので「15日に連絡してくれ」などと言えば、「その日は、ク
ァンボッチョルですよ」とやり返される可能性があります。
 その一言が「その日がなんで韓国の祭日だか、知っているのですか」に繋が
ってしまうと、ビジネスの基本である個人と個人の信頼関係を損なう危機が迫
ります。

 

 何も知らない外国人が玄関で靴も脱がず、畳の上にズカズカと入り込めば、
「そんなことも知らないのか」と私たちが憤慨するのを思えば、多少の知識で
「そんなことも知らないのか」を回避できるのであれば、それに越したこと
ありません。

 

(つづく)
【ソウル通信】2017.12.15配信

 

日韓ビジネス指南(4):韓国企業と付き合うビジネスマン心得

 

 

「すみません」は、ありがとうの意味?、

「いいです」とはYES.それともNO.?

  韓国ビジネスマンから学ぶ日本語の不思議

 


 今朝、北朝鮮がマタゾロ、弾道ミサイルを発射し、「ついに全米を射程内にとらえる大型ICBMを完成した」と鼓舞してみせました。解決の緒が見いだせない北朝鮮問題にイライラが募るばかりです。片や韓国はといえば、国会で「慰安婦の日」を可決する、サンフランシスコ慰安婦像の公共物化に喝采するなど、熱心なのは日韓連携に水を差すことばかりと思え、北と南併せて「半島問題」に日本人としてはほとほと疲労感が漂います。 とはいえ、今年前半(1-9月期)韓国への中国からの直接投資は63%減と大幅に減少したのに対し、日本から韓国への投資は前年比90%増(約17億ドル)と激増しています(米国から韓国へは5.5%減少)。何故、「ソウなるのか」については専門家が諸々解説していますが、それはともあれ「ビジネスはビジネス」と割り切る経済的な力学が日韓に顕在することもまた現実です。


 今回も「ビジネスはビジネス」と割り切って韓国企業との付き合い方を(政治の話は横に置いて)続けます。今号もまた日韓言語文化の話題となりますが、前号までの「同じ」あるいは「同じだが違う」といった内容ではなく、「全く違う」がテーマとなります。言語文化として「違い」が表出するのですが、その発生源は日韓の精神文化の「違い」に起因するといえます。

 

 

 「行く」は「いく」か「ゆく」か

 

 

  「『あいにくですが、お引き受けしかねます』は、文法的には正しい敬語ですが、現在ではチョッと尊大な響きとなるので、『しかねます』という表現は避けたほうがいいです。」10年程前、筆者は依頼されて韓国ビジネスマンを相手に「ビジネス会話」の講師を務めたことがありました。 そのとき「今では『しかねます』は、相手にえばった印象を与えてしまいます」と話したところで、一人の研修生がカバンから電子辞書を取り出し何やら調べだしました。 不思議に思い、「何を調べたのですか」と尋ねると、「『えばる』という動詞が辞書に載っていません」といいます。「そんなことは…」と思い、電子辞書を借りて探したのですが、やはり見つかりません。その時「ハッ」としました。「えばる」ではなく「いばる」が正しい日本語なのです。大きな辞書であれば、「えばる」は「いばる」の音変化と解説されていますが、微妙な音の違いに耳をすます研修生の「するどさ」には脱帽です。正しい基本的な日本語を発音しなければ、と恥じ入りました。


 外国との交流を通じて「日本を再発見した」との経験を持つ人は少なくないと思います。特に言葉は、外国語と比較するという機会がなければ空気のようなもので存在感もありません。ところが、韓国の人に日本語を「解説する」となった途端、無味無臭、無形物であった言葉の姿、形、時には味を「語る」ことに迫られ狼狽します。「『行く』は『ゆく』ですか、『いく』ですか」などと想定外の質問に、これまで開いたこともない文法書の買出しに書店に走る、などの椿事もおこります。


 文法が酷似し、表現の着想や言いまわしまで近い関係にある日本語と韓国語ですが、韓国の人たちと共に日本語を見つめなおすと「言葉の文化」の領域では大きな違いがあることを教わります。その一つが、日本語は驚くほど「あいまいな表現が多い」ということです。研究者は、日本は「あいまい」を美徳とし韓国では「はっきり」モノを言うのが良いとされる傾向があると指摘します。その違いを甘じょっぱい薄味の「お新香」と強力な辛さの濃味「キムチ」を好む国民性の違いに例える人もいますが、韓国語を学んだ日本人が韓国で、「あいまい」を美徳とする流儀で韓国語を話すと、「お新香臭い韓国語」と映るのだそうです。

 しかし日本語のあいまい美徳は、韓国とのビジネスにおいて障害となることが少なくありません。来日する韓国ビジネスマンのほとんどが日本風の「あいまい表現」に困惑した経験を持ちます。韓国の人には奇怪と映る、日本語のあいまい表現とは、どのような姿・形なのでしょうか。

 

 

「結構です」と「いいです」

 

 

 「『結構です』、『いいです』と回答した場合、質問に対するYES.ですかNO.ですか?」企業研修生のセミナーで筆者はよくこの意地悪な問題を出したものです。教科書で日本語を学んできた研修生が文法的に「YES.だ」、「いやNO.だ」を論じ合うのをひそかに楽しむのはチョッと陰険ですが、もちろん「結構です」、「いいです」はそれだけではYES.NO.を断定できません。

 「せっかくですが結構です(いいです)」と言えばNO.であり、「実に結構ですネ!(いいですネ!)」と話せばYES.の意味となります。日本人であれば、この微妙なYES.NO.を誤解することもないでしょうが、日本の家庭に招待された韓国人が、夕食のテーブルで「おかわりはいかがですか」との呼びかけに、YES.のつもりで「結構です」と応え、空きっ腹で食事が終わってしまった、などのハプニングは起こりがちです。


 無味無臭の母国語として使っているだけでは気にもなりませんが、同じ動詞でありながら正反対な意味に変化する動詞など他の国にあるのでしょうか。「すみません」という表現も韓国の人が戸惑う一言です。「すみません」は「ごめんなさい」の意味と勉強してきた彼らが、「ありがとう」としても通用している現実に直面すると、陳謝と感謝を同じ表現で済ませる言語で「よく意思表示ができるものだ」といぶかるのも無理はありません。レストランで「すみません」と店の人を呼べば、「誰が誰に対して陳謝(感謝)」しているのでしょうか。

 韓国語の「ミアンハムニダ(ごめんなさい)」は、どう転んでも「カムサムニダ(ありがとう)」の意味にはなりません。韓国語を学んだ日本人がうっかり「ありがとう」の意味で「ミアンハムニダ」と言ってしまうと「お新香臭い韓国語」を通り越して意味不明となってしまいます。

 

 

「ぼかし」と「強調」

 

 

 日本語特有のあいまい表現について、NHKのテレビハングル講座を担当されていた金珍娥(キム ジナ)先生が誠に興味深い研究を紹介されています。先生は研究のため、いくつも日本人の日常会話を録音し、分析を進めたのだそうですが、その結果、確定的な言い回しを避けるために日本人は普段着の会話であっても無意識に主張をあいまいとする「ぼかし」表現を頻発させていることを探りだしました。その典型パターンとして先生が紹介された表1では、二人が交わす3回の受け答えの中に9回ものぼかし表現が登場します。

 この研究が面白いのは「ぼかし」が多い日本語に並べ、「強調」表現が繰り返される韓国語の特性を対比していることです。どうも「はっきり」モノをいうのが正当と考える向きの韓国語では、主張を強化する「強調」表現を続発させるようです。表2に例示される韓国語の会話では、2行の発言に4回の強調表現が現れます。この調子で「ぼかし」と「強調」が挿入されるのであれば、日本語からぼかし表現を、韓国語から強調表現を全て抜いてしまえば、会話は3分の2で用が足せる計算です。あえて語数を多くしてでも「あいまいとする」、「強調する」のは、日本と韓国が古くから受け継いできた社会文化や道徳、価値観の「違い」の関係なのでしょう。

 ことによると金珍娥先生も日本語のぼかし表現というスタイルを知り、母国語である韓国語の強調表現の姿、形を再発見されたのかもしれません。異質な日本語の持ち味を見つけては、「絶叫するぐらい面白い日本語の妙味」と先生は日本語研究の醍醐味を記されていますが、この妙味が引立つのは母国語という下味が利くからに他なりません。

 

(表1)ぼかし表現】
A:最近どう?

B:だるいかも。あーあ、みたいな。 

A:うん、私も はあーって感じ。 

B:友達と韓国行こうとかっていってたのに. 

A:あ、いきたいかも。 

B:っていうか韓国、食べ物多くない

  なんか韓国っていえば焼肉って感じで

 

(表2)強調表現】

어제  집에 가는데  길에서 친구를  만났거든요.

オジェ マク チベ カヌンデ キレソ  チングルル  タン  マンナッコデュンニュ

昨日わーって家に帰るところで 道で友達にまたばったり会ったんですね。


그 친구  진짜  딱 분위기가  되게  막  모델 같았어요.

ク チング チンチャ  タクプヌィギガ トェーゲ マン  モデル  カッタソヨ

その友達がほんとばっちり雰囲気が  すごくぴったりモデルみたいでしたよ。        NHK『アンニョンハシムニカ(ハングル講座)』2005年8月号テキストp.56)

 

 

主語も述語のない会話

 

 

 もう一つ韓国語から学ぶ日本語の特徴として目にとまるのが、主語と述語(動詞)のない表現です。「では、また」と私も何の躊躇もなくメール文の最期に書き添えますが、この一言には主語も動詞もありません。

 「では、また」を分析すると「それでは、□□にまた○○します」が省略された形であるはずです。□□は「貴方」が入るところまでは明確です。しかし「○○します」はあいまいです。「ではまた、貴方にメールします」、「電話します」、「訪問します」、○○に入る動詞はいくつも可能性があります。どうも日本語は、「○○に入る動詞は、ご自由にご想像ください」といった場合は「後は細かく言わなくてもいいでしょう」と片付けてしまうようです。


 「おかげさまで、」という言葉も不思議な日本語です。久しぶりに再会した旧友から「お仕事は順調ですか?」と挨拶され「おかげさまで、」と応えるとき、省略された述語は、「おかげさまで、まあまあ順調です」ほどの意味合いです。 しかし主語は何でしょうか。筆者は長いこと深く考えることもなく、主語は「貴方」を省略したものと信じていました。仮に旧友は自分の仕事に何の貢献もしていなかったとしても、社交辞令として「貴方のお力添えで、私の仕事も順調です」といっているものと思っていました。

 この「おかげさまで、」の主語は何かを調査した報告によると、「貴方」は主流派ではなく、自分を含めた自分の会社(社員全体)が主語だと思っている人が多いようです。驚いたことに「神様」とか「天運」といったものが主語との少数意見もありました。


 「おかげさまで、」にしても、主語が何かを確定させることは余り重要ではなく、突き詰めて考えると分からなくなることでも、「あえて言わなくてもいいでしょう」と漠然と済ませるのが日本語の流儀のようです。 しかし韓国語ではそうはいきません。主語を省略する表現が多いのは日本語と同じですが、動詞まで省略することはありません。会話も動詞など述語で完結する必要があります。述語がないと韓国語会話は成り立たなくなります。

 「あっ、地震」。突然、グラリと振動が事務所を襲えば、日本人であれば名詞の一言で意味が通じます。しかし韓国語ではこのような場合でも述語が必要です。椅子やテーブルがガタガタ鳴り響く中、「地震です」と叫ぶ韓国人の日本語を耳にしながら、この非常時に韓国の人は何と丁寧な言葉遣いなのだろうと関心したものです。

 

 

「言わなくても分かるでしょう」

 

 

 「言わなくても分かるでしょう」の日本流は、集団の中で自分の主張を控え、摩擦を極力回避するという社会集団的な心理から導かれるようです。特に目上の人やお客様など丁重な対応が必要となる場合、失礼がないように「これ以上は言いませんから、後は私の心を察してください」という特殊な話法を発達させました。これは外国語には見られない異色な言い回しです。
 「社長はいますか。」事務所にかかってきた電話でいきなり依頼されても、そのまま取り継ぐわけにはゆきません。誰からの電話であるかを確認しなければ社長に怒られてしまいます。「失礼でございますが、どちら様でいらっしゃいますか」と聞けば、文法としては正しい日本語です。しかし大方そうは尋ねません。たんに「失礼でございますが、、、(以下省略)。」という話法で、「後は言わなくても分かるでしょう。アナタの名前を聞いているのですよ」をアウンの呼吸で伝えます。これでよほど鈍感な日本人でなければ、会話は成立するはずです。

 

 この日本流ビジネス・マナーは、韓国人にはカルチャーショックであるようで、早速、「失礼でございますが、、、」を電話口で試してみては、相手が名乗るのを確認し、文化の違いを楽しみます。

 「言葉の文化」の違いから突拍子もない珍事も起こります。韓国人ビジネスマンAさんとある日本企業を訪問した時のことです。Aさんは、韓国で日本語を習得し、日本駐在員として着任したばかりです。 受付で筆者が「T部長はいらっしゃいますか」と告げると、受付の女性はすかさず「失礼でございますが、、、」で対応します。そこで名を名乗ろうとした瞬間、何を思ったか、Aさんが半歩前に出て、「ぜんぜん、失礼ではありません」と悠然とのたまったのです。

 私も絶句したのですが、女性は完全に固まってしまいました。予測不能な一言に応ずる術なく、パニックに陥ってしまったのです。

 後で、どうして「ぜんぜん…」と受付の人に言ったのかを聞いてみると、Aさんは、「とても礼儀正しいし、かわいい人だから、失礼なことは何もない、と言ってあげなくっちゃ」と答えました。


 このあいまい表現と強調表現の違いですが、驚くことにすでに幼稚園児から日韓の違いとなって表れるようです。例えば、幼稚園の昼休み、園庭で遊びに夢中となっている園児に先生が「もう外で遊ぶ時間は終わりました。教室にもどって勉強しましょう」と呼びかけた時などのシーンです。

 日本の園児であれば、一斉に「エー」と合唱するはずです。ところが韓国の幼稚園であれば、一人一人が「シロー(嫌だ)」と訴えます。「エー」という日本の感嘆詞は、それだけでは「嫌だ(=NO.)」の意味はありません。「エー!(嫌だ)」の嫌だが省略されている表現です。「嫌だ」を省略するだけではなく、全員の合唱であることがまた日本では重要です。全体として「NO.だ」になっていることが日本では大切なのです。おそらくあいまい表現に加え「自我を露骨に出すのは下品」といった美意識が合唱の底辺にあるのでしょう。

 ところが、韓国は違います。立派な人格者は主義主張を持つというのが韓国流で、自分の立場は明確にせねばなりません。勿論、親が子に「こういう場合は、エーと合唱しろ」とか「シローと自己主張しろ」などと教えているのではありません。幼稚園児の「エー」と「シロー」は、風土が異なる日本と韓国の社会が、自然とそれぞれのあいまい文化と強調文化を教育しているのです。「言葉は文化の化体」ですので、この違いは精神文化、社会風土の相違に由来します。

 

 

日本語勘違いの傑作

 

 

 本題から少し離れるのですが最期に、後世語り継ぐべきだと思えるほどの、「日本語勘違い」の傑作との出会いを書き添えておきたいと思います。その出会いは筆者に届いた韓国企業研修生Sさんからのメールに書かれていた次の一文です。


 「企画書を書きましたので、貴様の方でチェックしてください。」


 早速、Sさんを呼んで、「『貴』も『様』も相手を持ち上げる文字だけど、合体させてはダメ。貴様(キサマ)というと、けんかするときの呼び方になってしまいます。」と話すと、「エッ」っとSさんはビックりし、聞き返します。

 

「どうして日本人は、けんかするときも相手をうやまうのですか?」。

「ぜんせん、うやまってません。」

「どうして?」。

「どうしても!!。」

 

 聞いた話ですと、韓国の古いワープロソフトの中には、日本語入力モードで「あなたさま」を変換すると「貴様」となるものがあった、とのことですから、Sさん個人の問題ではないかもしれません。ただ、この一件には後日談があります。貴様メールの次に届いたSさんからのメールには、こう書かれていました。


 「企画書を書き直しましたので、殿様の方でチェックしてください。」


(つづく)
 【ソウル通信】2017.11.29配信