時事旬報社

時事問題を合理的な角度から追って行きます

物損事故(物件事故)と警察の民事不介入

 社会には実際経験してみないと常識では想像もできないような苦難に出会うことがある。東京郊外に住むAさんが体験した交通事故(物損事故)もそんな話の一つだ。

 

当日

  いつものように近所のスーパーにマイカーで出かけたAさん、帰り道で十字路に差し掛かった。信号はない交差点である。道幅は狭く対向車とすれ違うのがやっとで、緩やかな登り起伏もあるため、侵入すると視界が悪く、日頃から通過には細心の注意を払っていた交差点だ。

 

 見ると右方向よりウィンカーを点滅させコチラに左折しようとする対向車がある。そこでAさんは一時停止標識前の停止線に車を止め、対向車の通過を待った。対向車は微速前進で左折を開始したが、大きく膨らみ、このままでは正面衝突する状況である。咄嗟にAさんはクラクションに手をかけたが、同時に対向車はブレーキをかけ停止する趣きである。「コチラに気がつき停止してバックするのか」と思った瞬間、対向車は再び前進、A車の右側面に衝突した。衝突といっても時速数キロ程度、怪我人が出るほどではない。それでもA車の右ウィンカーは破損し、バンパーが歪んだ。

 

 対向車には中年女性二人が乗車し、ハンドルを握っていたB女さんは、仰天した風で車から駆け寄り、「前を見ていなかったのでぶつかってしまった」と詫びた。「事故ですから警察に連絡します」とAさんは告げ、110番通報した。
 小さな事故であると警察が判断したからか、近隣の派出所から原付に乗った警察官一人が到着するまで30分程かかった。その間、道路の往来を堰き止めるわけにもゆかず、自走に問題のないA車、B女車共に交差点から数十メートル離れた路肩に車を移動し、警察を待った。

 

 現場にやってきた警察官は、第一に負傷者がいないことを確認し、双方から事故時の状況を聴取した。B女さんの動揺は収まらず、「前を見ずに衝突した」、「A車の修理代は自分が払う」と話し、Aさんもその話の通りだ、と同意した。その後、警察官は衝突現場に行き、一時停止線上に散乱するB車のウィンカー破片やA車、B女車の破損状況を持参したデジタルカメラに収め、両者の運転免許証や自賠責保険などの必要箇所を書き写し、名前、勤務する派出所を告げ、現場を去った。

 Aさん、B女さんも相互に名前、連絡先、任意保険の会社名、証券番号を確認し、別れた。「相手は非を認めていることだし、コチラは停止していたのだから、相手方に全ての責任はある」と、Aさんは何の疑問ももたなかった。ただ別れ際にB女さんがAさんに告げた一言「気をつけて帰ってください、、、」が少々気になった。当然、「気をつけるのは、ソッチだろう」だからだ。

 

 Aさんの苦悩はこの時より始まる。約1年に渡り続く苦悩である。後日、Aさんを大いに後悔させたことが二つあった。一つはA車がドライブレコーダーを装着していなかったことだ。そしてもう一つは、車を移動させる前に、現場で衝突状況をスマホカメラで撮影しておかなかったことだ。

 

翌日~数日後

  事故翌日、B女さんの保険会社から電話がある。修理工場や代車の手配など補償の話と思いきや、「B女さんは、交差点を突進してきたA車にぶつけられた」と主張していると知り言葉を失う。「賠償は過失割合の問題となる。事故交差点は、A車レーンに一時停止線があることから、進入優先権はB女車にあり、過失割合はA車80%、B車20%の料率と算定するが、その条件で了承するか」というものだった。
 Aさんは狼狽する。そもそも事実に反するし、B女さんも警察にその事実を認めていると反論しても、「反論する事実をどうやって実証できるのか」、「警察の証言や資料は証拠となるが、その立証責任は反論者側となる」と取り付く島もない。

 

 「到底了承できない」と電話を切り、Aさんの保険会社に連絡、相談すると「保険会社の担当者同士で交渉してみる」との話となる。数日後、結果の連絡があるが、「交渉により80:20の料率を70:30、つまりAさんの過失責任を10%押さえることができた」と実績を自慢するかのような話方。事故の過失は7割はAさんにある、保険会社としての交渉はこれが限度で、「責任を認めるほかない」と自分の保険会社から説得される事態にAさんは頭を抱える。

 

 後日、判明したことであるが、損保会社には力関係が存在する。B女さん加入の損保は国内大手の民族系保険会社で、Aさんは、通販型の格安損保であった。格安損保は、人員や調査体制が限られ、よほど大きな事故でない限り(つまり数十万程度の賠償案件については)、人件費を節約するため(事故内容はどうであれ)さっさと賠償金を払って一件落着させる傾向にある。逆にその手の内が分っている大手損保は、「さっさと損保」には強気に出る、というのである。

 

 過失を認めるよう諭されたAさんであるが、納得ゆかない。A車が停止していたのが事実で、相手方に再交渉を依頼するが、ここでまた思いもよらない損保のルールを知る。「保険会社同士の交渉は料率交渉のみが許されており、ゼロ対100、つまりAさんが無過失を主張する場合は対応ができない」と言うのだ。なぜこのような「定め」になっているのかについては、Aさんの知るところではない。いずれにしてもAさんは単独でB女さん損保と渡り合う他ない状況となる。

 

民事不介入の原則

 方策がなくなったAさんは、現場検証に着た派出所警察官に連絡した。現場で「B女さんが話したこと」、「一時停止線上にA車のウィンカー部品が散乱していた」などの事実をB女さん保険会社に話してもらいたいと思ったのだ。ここでまたAさんは、これまで無縁であった法律の「定め」を知り呆然とする。

 

  「警察には民事不介入の原則があり、私人間の財産的な紛争については、司法権(裁判所)の管轄となり警察権は介入できないことになっている。したがって、B女さん保険会社が連絡してきても、自分の判断で、何を見た、どう考えたか、は話すことができない」。
 どうも警察官は、同様な事例を何度も経験しているようで、Aさんの依頼に至極こなれた対応である。「何のために警察は現場検証をするのだ」、Aさんは苛立つが、負傷者がでる事故(人身事故)は刑事事件となり警察権の本務として事故原因を究明し、事実を認定するが、私人間の物損事故(物件事故)の場合は、民事事件であり警察は介入しないのが原則である。

 それでも、「このままでは被害者の私が加害者となってしまう」との懇願に同情したのか、警察官は電話を切る間際、「事故報告書は、すでに地域警察署に提出してある。B女さんが甲欄だ」と告げた。

 当初、その一言の意味をAさんは理解できなかった。おそらく一言は、警察の民事不介入原則をすでに違反しているのだろう。その後、何度かAさんは担当警察官とのコンタクトを試みたが、常に同僚が対応し、本人とは二度と話すことができなかった。
 とはいえ、事故に関し報告書があることは朗報である。早速、Aさんは地域警察署に行き開示を求めるが、門前払いとなる。物損事故(物件事故)は、自動車運転過失致死障害罪違反(刑法211.2等)での立件がないため、原則として「刑事記録(実況見分調書)」のようなものが無い。物件事故の場合は、「物件事故報告書」を作成するが、基本的に警察の 内部資料の扱いとなり、公開はしていない、という説明であった。

 

それから数ヶ月

  そうこうしている間、すでに数ヶ月が経過したところでA車保険会社から連絡がある。Aさん保険会社はすでに対応できないと撤退しているので連絡は意外だ。
 「B女さん保険会社から、料率を50:50に引き下げるとの提案があった。これで決着してはどうか」というのが、話の内容である。70:30であろうが、50:50であろうが、Aさんの忸怩に変わりは無い。返答に躊躇していると、損保担当者は「裁判を考えているのですか」と質す。「裁判をしても、証拠は何もありませんよ。B女さんは中央線がある優先道路を走行していたのですから、状況はAさんが不利です」と言う。

 

 勿論、裁判など考えたことはない。しかし雰囲気から損保会社は「裁判」を懸念していることは想像できる。そのまま黙っていると「Aさんは、弁護士特約に加入されていますので、弁護士費用として300万円まで保険でカバーできます。特約を利用されても保険等級に変化はありません」。
 おそらく担当者は、保険内容の説明義務として弁護士特約の説明をしたのだろう。しかしこの話はAさんを啓発した。

 

 「特約を使う場合、弁護士事務所を紹介してもらえるのですか」
 「ご紹介している弁護士はいません。ご本人様で探していただく必要があります。弁護士事務所をお決めいただき、請求書を弊社に送って頂くことになります」
 短い電話であったが、膠着していた事態がこれで、再び動く。

 

弁護士事務所

 「代理人(弁護士)に事の解決を委ねる」を決意したAさんは、当初、勤務先の顧問弁護士に依頼した。事情を一通り聞いた顧問弁護士は、「了解しました」と代理人となることを快諾、Aさんも安堵する。ところがその後、一ヶ月、二ヶ月、弁護士から何の連絡もない。業を煮やしAさんが顧問弁護士に連絡すると「忙しくて時間がとれない」と陳謝する。
 これも後日判明したのであるが、医者に内科や外科があるように弁護士にも専門分野がある。ましてや高々数十万円程度の物損では解決しても弁護士報酬はたかが知れている。専門外の顧問弁護士の腰が引けるのも無理は無い。弁護士であれば誰でもいい、ということではないのだ。

 

 Aさんは丁重に依頼解除を申し出て、交通事故専門の弁護士をネットで探し、電話で代理人を依頼したところ、「B女さんの保険会社は、○○損保ですか?」と質す。「いえ、△△損保です」と答えると、「それならば対応できます」との返事だ。
 聞けば、この弁護士は○○損保の契約弁護士であり、紛争相手が○○損保の場合は「引き受けない」とのこと。実に厄介な業界である。

 

 しかし交通事故専門弁護士に依頼し今度は、急速に事態が進む。依頼から数日後、新弁護士から次のような話がある。
 「B女さん損保担当者と話しました。Aさん、衝突で破損した箇所は、もう自費で修理してしまったでしょうか」
 「いいえ、破損したウィンカーの電球だけは交換しましたが、それ以外はガムテープで補修する不様な姿のまま乗り続けています」
 「それはよかった。B女さん損保が一度、アジャスターに破損状況を検証させたいといっていますので、アジャスターの検証が終わるまで、修理しないでください」
 「アジャスター?」
 「損害車輌の事故原因を調査し、被害額を査定する技術者で、事故調査員の資格を持つ人のことです。検証日時を決めるため、損保担当者が直接Aさんに連絡したいといっていますが、構いませんか」

 

 一度代理人(弁護士)を立てると、交渉窓口は代理人に一本化される。B女車損保担当者もAさんに直接連絡する場合は、代理人を経由してAさんの了承を得る必要がある。そんな「仕組みになっている」、ということもこの時初めて知った。無論拒否するような筋合いでもない。

 

 ほどなく、損保担当者から連絡があり、アジャスターにはAさんが指定した日時、場所に来てもらうことにした。
 並行してAさんは弁護士に地域警察署に管理されている物件事故報告書の開示を求めていた。第三者の証人もドライブレコーダーのような物証も無い状況では、事故状況を立証するのは唯一、この報告書だけではないか、とAさんは考えていたのだ。
 「弁護士の資格をもって当該報告書の開示請求を警察署に行なった」弁護士からの一報にAさんの期待は高まるが、二週間ほど後、「正式に拒絶された」との回答に再び落胆する。またもや暗雲が漂うが、想定外のところから光明がさす。アジャスターの検証だ。

 

アジャスター検証

 指定した場所に時間通りにやってきたアジャスターは、自己紹介し、名刺をAさんに差し出した。B女車損保会社の社員である。そして事故車に歩み寄り、損傷箇所を見た途端「イヤー、チャンと残ってますね」と言う。Aさんには何のことだか理解できない。
 その後、アジャスターはメジャーで長さを測ったり、写真を撮ったり、特定箇所を虫眼鏡で眺めたりで、15分ほど作業を続けた。
 一通りの検証を終えたアジャスターは、Aさんの胸を衝く驚くべき一言を放つ。

 

 「エンジニアの良心として話しますが、この事故の被害者はAさんです」

 

 「なんでソンなことが分るのか」、Aさんは混乱する。状況が理解できず唖然としているAさんにアジャスターが「なぜか」を説明する。

 

 「バンパーに残るこの四角いヘコミを見てください」
 確かに指示された箇所にウッスラと長方形のヘコミがある。

 「これは業界ではプレート痕(ナンバープレート痕)と呼ばれるもので、相手車のナンバープレートがココに衝突し、スタンプしたかのように残った刻印です。プレート痕はぶつけられた車に残る、という特性があります」
 言葉を失うAさんにアジャスターは続ける。

 

 「場合によっては、相手車のナンバーが判別できるほど刻印が残るものがあり、そのようなケースでは100%停車していた車輌にぶつかったと断言できます。A車の場合はソコまでではありませんが、明確にプレート痕が残っていることと、相手車のプレートペンキが一部A車に付着しているところから、A車は停車していたか、超微速で前進している最中に数倍のスピードで相手車が衝突した事故であると判断できます。
 もう一つ、航空写真(Google Map)から現場の四つ角は河川上にあり、道路側面に欄干があるため、車は路外にはみ出すことができず、衝突の箇所は幾何学的な制約を受けます。A車前方右辺がこの角度で凹んでいることは、Aさんが主張する一時停止線上での停止を裏付けるものです。逆にA車が突進してきて交差点上で衝突したとするB女さんの主張では、この凹み方を説明できません」
 プロの仕事とはこういうものか、Aさんは圧倒される。

 

 「ただし、」とアジャスターは続ける。「私はB女さんのアジャスターですので、その立場で報告書を書きます。こういうことは言ってはいけないのですが、Aさんの側でもアジャスターを手配し、Aさんの主張を立証する調査報告書を準備されるべきです」

 

 このアジャスターが来てくれたことは、なんと幸運なことか。早速Aさんは、弁護士を通じ、Aさん側のアジャスターを手配、再び事故車検証を実施、「全ての状況からA車が停車中の事故であることは、疑いようがない」と結論する報告書をB女車損保に送った。

 

 そうこうしている内に思いもよらない吉報が飛び込む。弁護士より諦めていた地域警察署の「物件事故報告書が開示されることになった」との連絡があったのだ。弁護士個人の資格では開示拒絶となったので、弁護士会会長名で再要請し、開示に至ったという。
 数日して弁護士より開示された報告書が郵送されてきた。高鳴る鼓動を抑えながら、開封すると中身は意外なものであった。A4用紙に事故日時、場所、当事者の氏名や住所などの基本情報に、「A車停車中にB女車がぶつかった」と一言事故内容欄に書き入れられた誠に簡素なものであった。状況の詳細や現場聴取の記録、写真など一切無く、単に一言あるだけである。

 

 面を食らったAさんであるが、後日、物件事故報告書は警察官の多忙さの度合いや性分などにより内容の密度に相当なバラツキがあることを知る。小破したA車事故などは警察が優先すべき順序としては相当低いに違いない。事によると警察が、物件事故報告書を原則非公開とするのはコレが理由かなどと邪推したくもなる。

 とはいえ、一言は事故の責任がB女車であることを明確にしている。これは警察が認定した事実であるからして、もし相手方が事実と違うと争うのであれば、警察の事実認定を覆す証拠が必要となる。ここに至りようやくAさんは、「証拠があるのか」とB女さんを質す立場へと逆転した。事件発生から一年が近づきつつあった。

 

意外な結末

 翌日、弁護士から早急に会いたいとの連絡があり、一件落着も近いと小躍りして事務所を訪れたAさんは意外な話を聞く。

 

 「コチラのアジャスター報告書を送り、交渉した結果、B女さん損保から料率を30:70とし、自分の責任のほうが大きいことを認める、といってきました。本件に関しては、ここら辺りが収めどころと考えます。仮に裁判に持ち込んでも勝てる見込みはなく、通常裁判では相手側は100:0と責任が一切ないと主張するのが通例で、そうなると相手方の責任7割すら勝ち取れなくなるリスクがあります」

 

 いきなり切り出した弁護士の話にAさんはたじろぐ。物件事故報告書を入手し圧倒的有利となったはずであるが、3割の過失を認め和解するようにと語気強く勧める。
 弁護士依頼からすでに半年を経過している。おそらく弁護士としてもAさんのような少額紛争にこれ以上時間を割かれたくはないのだろう。ましてや裁判ともなれば、小さな事案で更に稼働を奪われる。
 「これ以上は係わりたくない」を察したAさんも「もはやコレまでか」を決心する。

 

 「物件事故報告書はB女車損保に送ったのでしょうか」
 「まだです」
 「では、30:70で妥協するしないは、先生の判断にご一任いたします。ですが、物件事故報告書を提示し、一応10:90、20:80と少しでも相手の責任を積み上げる交渉をなさってください。それでも30:70を譲らない、というのであれば、その場で30:70で和解していただいて構いません」
 「了解しました」

 

 Aさんは若干の脱力感を感じながら弁護士事務所を出る。社会とはそういうものか、などと考える。ともあれ、コレで一年余続いた苦悩からは開放される。奥底に淀むものはあるが、安堵は安堵だ。

 

 数日後、弁護士から連絡がある。妥結した料率を尋ねると、「0:100となりました。B女さんは全面的に責任を認めました」。急変する事態にAさんも混乱する。

 

 「物件事故報告書を提示すると即座に0:100を認めました」

 

 B女車損保からはここ最近頻繁に弁護士事務所に和解確認の連絡が来ていたとのこと。どうも少額案件で一年も長引くことは異例で、Aさんが裁判に持ち込む準備をしていると警戒したようである。そのタイミングで提出された物件事故報告書、「このままでは裁判になる」の一言でB女さんも「折れた」模様とのこと。

 

 「A車補償修理の件で、B女車損保の担当者が、Aさんと直接話たいと言っていますが、構いませんか」
 例によって直接コンタクトの許可だ。無論やぶさかではない。

 

 

 ほどなくして、担当者から電話がある。
 「この度は、ご迷惑をおかけいたしまして申し訳ございませんでした」
 この担当者とも一年の付き合いである。これまでの加害者扱いの態度が豹変したことに腹がむずがゆくなる。しかしこの時、Aさんは心底「終わった」を実感したのであった。

 

 ○B女さん損保が負担したA車修理費用 約40万円

 ○Aさん損保が負担した弁護士費用 約70万円

 

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 人身事故よりも物件事故(物損事故)の方がはるかに多い。警察の民事不介入となる物件事故では、保険会社の力関係や弁護士の度量、あるいは当事者の声の大きさ、時の運不運で真実が歪む。泣き寝入りするしかない被害者は想像以上に多いようだ。
 この一件一番の教訓は、「ドライブレコーダーを装着せよ」である。無い場合は、少なくとも車を移動させる前に現場の写真を撮っておかねばならない。
 第二は「任意保険の弁護士特約に加入せよ」だ。そもそも弁護士特約はAさんのような事態への備えなのである。特約費用も大した金額ではない。いざという時に備える不可欠な特約といえる。
 Aさんのように良心的なアジャスターと出会えるかは、時の運に属するであろうが、特約加入であれば、弁護士事務所を通じて、コチラ側のアジャスターを依頼することもできる。そのためにも交通事故専門の弁護士に依頼するべきだ。

 

  保険会社のアンケート調査によれば、過去1年で何某かの事故に遭遇したドライバーの比率は10%、つまり10人に一人は事故に会う勘定となる。人身事故でなければそれだけでも幸運といえるが、被害者でありながら、加害責任を負う理不尽もジャンケンで二連勝する程度の確率で起り得る「事故」に含まれるのだ。

 

【時事デスク】

 

 

 

 

 

 

 

 

電撃訪中:中朝首脳会談

日本は蚊帳の外か

 3月26日、極秘裏に金正恩委員長が訪中、習近平国家主席と首脳会談を実施した。張成沢の処刑以来、中朝関係は冷え切っていたとされてきただけに正に意表をつく訪中である。28日午前、朝鮮中央放送は「習近平主席の招きにより26日から28日まで中国を非公式に訪問した」とし、中国の招きであったと報ずるが、中朝どちらが積極的に仕掛けたのかは明らかではない。


 中朝にとっていは、南北・米朝会談を控えるこのタイミングで会っておく意義は大きい。会うだけで米国、韓国への強力なプレッシャーになる。この筋書きを金正恩が書いたのだとすれば、彼は想像以上の才物であるといえる。この指導者と対峙するのは一筋縄ではゆかないことを察する必要がある。


 もう一つ、今回の訪中でハッキリしたのが金正恩という人物の外交的存在感である。独裁者の後継者として帝王学を仕込まれた金正恩であったが、終始箱入り生活の世間知らず、内向的(内弁慶)で、外交のように「自分にひれ伏さない」相手との対等交渉は苦手、安全な大奥から鵜飼い政治を行なうのみで、習近平やトランプなど百戦錬磨の巨漢に面と向かう度胸はないなどとの憶測もあった。しかし今回で、ソンな小粒ではないことも分った。

 

 張成沢処刑は、彼が中国に金正恩排除を仕掛けていた謀略の発覚であったことより、習近平がその気になれば、ノコノコと訪中してきた問題児を拘束し排除するとのリスクを金正恩が警戒しないはずはない。そのリスクを冒してでも、今後の対米、対韓、対中交渉の主導権確保に奔走したことは、月並みではない外交手腕と見るべきであろう。

 

 

 さて日本である。北朝鮮問題の急展開に関し、日本は目立った関与がない。このままでは蚊帳の外となる不安感が漂う。しかし関与がないのは接点がないとのことで、接点がないのであれば、無理に接点を作る必要も無いと思える。無論、日本には拉致問題という急迫した難題があり、事態を傍観するような余裕は無いが、急いて足下を見られるような事態も回避せねばならないだろう。

 今後、米朝会談が実現するか、実現し半島問題が平和的解決に向かうのかは誰にも分らない。日本が「動く」のであれば、どの方向に向かったとしても対応できる方策を周到に用意しておかねばならない。

 

 例え誰がプレイヤーとなって情勢を動かしたとしても、結果として半島の緊張が解消され、平和国家北朝鮮が国民経済本意の政策にシフトしてゆくのであれば、喜ばしい進展であることに変わりは無い。誰の手柄かはともかく、好転すれば、拉致問題解決の好機も自然と訪れるに違いない。

 

 

 しかし、並ではない才物が相手であるからして、日本唯一のカードともいえるピョンヤン宣言(巨額戦後補償金拠出)をトランプ流ディールとして最大限に活用する、つまり、匂いだけ嗅がせるとか最低分だけの小出しを繰り返すなど、若い老獪にコチラも権謀術策の限りを尽くし、目的を達成する程度の悪知恵は求められる。

 

【国際部半島情勢デスク】

 

 

ベーシックインカム:日本が天国となる日(3)

 前号(3月2日)で大雑把に計算したように、国民全員に無条件で月12万円を支給するというベーシックインカムが、いかに突拍子もない話であるかは明白です。プライマリーバランスなど財政収支を考えれば、議論の余地もないようにも思えます。しかしなぜベーシックインカムが国際的な関心を集めるのかと言えば、AI等の技術革新が早晩、人手を必要とする「仕事」を激減させる現実が迫ってきている事情によります。


 一部識者が主張する「今後20年以内に人間が行なう仕事の90%は消滅する」は、極端な意見かもしれません。ですが、それが半分だろうが、三分の一だろうが激変が避けられない生産社会や労働市場に備えねばなりません。見方を変えれば、仮に現状のまま大失業時代に突入すれば、天文学的な失業保険や生活保護費が必要となり、結局のところ「どうするか」をいつかは、決めねばなりません。今、ベーシックインカムを議論しておくことは、社会の大混乱や矛盾、無秩序や破壊を緩和あるいは予防する処方箋を準備する作業と言えますし、上手い処方箋が見つかり、誰もが「やろう」と同意すれば、日本は天国となるかもしれません。今暫く「天国ニッポン」とはどういう社会かを追ってみましょう。

 

国富の源泉

 

 さて財政問題をともかくとすると、ベーシックインカム最大の懸念は、「人間が怠惰となる」という労働倫理の問題です。「働かずとも、文化的最低限度の生活は出来る」、つまり無職となっても飢死ぬことはない、となれば、多くが「楽をしよう」と考えるのは当然です。「いい仕事を得よう」という動機がなくなれば、「いい大学に入ろう」、「いい大学に入るため、受験予備校に通おう」といった動機も連鎖的に消滅します。しまいには「勉強なんか必要ない」との境地に至るかもしれません。


 通貨発行益などテクニックを多用したとしても、国民の殆どが何もせず、日がな一日、ベーシックインカムで食いつなぎ、「ブラブラしているだけ」ということであれば、国家は存続できるものではありません。金や石油といった地下資源が豊富にあるどこかの国であれば、全国民のブラブラが許されるかもしれませんが、人的資源だけを頼りに今日まで来た日本においては、国民が労働と生産を止めてしまえば滅びるほかないのです。
 、、、と、かくのように話すと正論を主張しているように思われるかもしれませんが、実はこの議論には、ベーシックインカムの本質を考える際の落とし穴が潜んでいます。この主張は半分正しく、半分間違っているからです。


 例えば、10人の労働者が一日かけて商品を一つ生産していたとします。そこに製造ロボットを導入して一日一つの商品を労働者一人でできるようになったら、経営者であれば不要となった9人を解雇して、利益率を向上しようとするかもしれません。

 しかし成果物は維持しながら労働者を解雇しないのであれば、労働者は10日に1度働けばいいという勘定になります。商品がこの会社の独占品で、従来と同じ値段で「売れる」というのであれば、計算上は「10日に一日勤務で給料は同じ」が実現できるはずです。

 技術革新で仕事が激減するベーシックインカム時代の発想には、このような視点も含まれます。この会社の社長を「日本政府」に、10人の社員を「日本国民」とすると、ベーシックインカムの本質が透いて見えてきます。

 


 とはいえ、市場経済の社会では生産の効率化は価格競争に転化しますので、合理化は避けられません。それはそうなのですが、「商品がこの会社の独占品であれば」との前提は、ベーシックインカムを実現するリアリティを予見させます。グローバル時代の今日、資源小国「日本」は、技術やサービスで国際競争力を維持しなければなりません。9人の不要社員が「新規の商品・サービス開発(独占品開発)に投入される」のだ、とすれば、国富を低下させることなく、ベーシックインカムを実現できるのではないか、と思えます。

 

職業倫理

 

 さて、職業倫理の話です。10日に一度勤務で随分楽になります。ですが、ベーシックインカムで「10日に一度も働きたくない」、という人もでてくるでしょう。それがどれほどの割合であるのかは検討もつきません。2000人を対象としたフィンランドの実験(2017年~)でも勤労意欲にベーシックインカムがいかほどの影響をもたらすかは、大きな検証項目となっています。


 最低限の生活を保証するだけですから、「豊かな生活をしたい」という勤労への動機が奪われるわけではなく、大方の人は「仕事をしよう」と考えるとも思えます。ただし、生活のために働く必要は無くなりますから、転職が激増するなどが起るかも知れません。

 


 個人的には勤労という社会参加を捨て、孤高の脱俗を選択する人は、そうは多くないように思えます。昨年、国内の自殺者は22000人を数えましたが、その動機は、家庭問題、経済問題、学校・職場関係であり、殆どが社会生活に関連しています。対人関係に悩み、死ぬほど辛いのであれば、世捨て人となり、人里離れた奥山で仙人生活をする選択もあり得るのですが、大方は社会の中(街中)での死を選らぶことから、人は本質的に社会から隔絶されることを嫌う存在であると考えられ、勤労という社会集団参加の定番を失いたくない、という欲求は本能であるように思えます。

 

 勿論、仕事の絶対数が激減するベーシックインカム時代では就職が困難であるのですが、それは「利益に直結する仕事」がないということで、儲けを伴わない(ほとんどボランティアのような)職務であれば無尽蔵といえ、自ら創出することもできます。


 一銭の稼ぎにもならない業務であっても、10年、20年と継続することによって新しい価値や文化、技術を産むのであれば、日本の国力の次世代の源泉と期待できます。新しい技術の開発のように資金や設備がないとできない自発的職務もあるでしょうが、好きなだけ大学に在学できるようにするなど制度を整えることによって方策はあると思います。


 来たるべきベーシックインカムの制度設計は、そのような視座から組立てねばなりません。

(つづく)

 

社会部デスク

 

 

 

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財務省データ改ざん問題

森友学園加計学園:官僚忖度の無情

 本日、財務省が森友文章の書き換えを認めた。「文書は破棄した」の主張を撤回、その上で国会に提出した文章が改ざんされていたのだから、財務省としては度重なる失態である。しかし何故このようなことがおきたのであろうか。


 森友問題と加計問題は、次の点で本質が似ている。

 (1)共に官邸に対する忖度が行政府をして特定の第三者に便宜を与えた疑義。

 (2)共に教育機関設立に対し優遇があったのではないかとの疑義。


 大会社や官庁の出世の極意とは、「成功はしなくともよい。失敗だけはするな」であるから、官僚としては前例のない冒険は「やりたくない」が基本であろう。にもかかわらず特定私人の便宜や優遇となる無理筋を敢えて通したのであるから、よほど高度なパワーが働いたと考える他無い。言うまでも無くパワーの震源は現在の内閣総理大臣である。


 加計学園理事長は総理の竹馬の友である。森友学園開校には総理夫人が奇妙な形で関与した。二つの問題が同根であろうことは、もはや否定しがたい。

 しかしそれにしても「不思議」、、である。おそらく加計と森友では、首相の「思い入れ」は、桁違いだろうからだ。

 

 昨年5月、首相補佐官文科省事務次官を訪れ、「総理は自分の口からは言えないから、私が代わりに言う」と加計学園獣医学部早期開設を迫ったとされる。国会答弁でも加計問題について、総理は一人称で話す。直接指揮した当事者であることを否定しない。

 しかし森友学園に関しては、自分も妻も関係のない第三者の話と突き放す。対岸の火事であるもかかわらず風に煽れ迷惑にも火の粉が飛び込んでくる、といった風である。

 


 論理的に考えてもこの差異は推測できる。竹馬の友が官僚の岩盤規制により長きにわたり獣医学部新設が阻まれる恨み節は、総理も漏れ聞いていたであろうし、規制緩和アベノミクスの柱でもある。加計は総理の人情と政策が一体化した(少なくとも意識的には)重要政策であったに違いない。

 しかし、いかに愛国教育が総理の思想と符合したといえ、海千山千の森友新設小学校に政治生命をかけるような気合いがあったとは到底思えない。実際総理は森友学園については、ほとんど何も知らなかったとのフシがある。

 


 そこで忖度である。総理が自らのポリシーとして獣医学部設立を切望したとしても、行政機関の長としては固有名詞(加計)を出すこともできず、「何が言いたいかは分るな」的語法で間接伝意すれば、「前例の無い便宜で学園の早期開設」のみが伝令ゲームとなる。

 それでも岩盤を微動だにしなかった文科省については、首相補佐官を送り、直接「加計」を伝えたかもしれないが、財務省には「前例のない早期開設」のみ伝播したのだとすると、森友を加計と混同したとしてもおかしくは無い。

 


 今回の財務省改ざんデータ事件では、財務大臣も関与している可能性がある。邪推を拡大すれば、財務大臣も総理に忖度し、森友を押したのかもしれない。事が公になる前、財務大臣にとって森友と加計を区別できなかったとしても不思議ではない。


 そうだとすると更に一つ不思議が増える。邪推の通りだとすると、総理夫人まで忖度して、森友に特別な便宜を図った、となるからだ。夫人自体は、愛国教育の学園に特別な思い入れがあるとは考えにくい。夫である総理大臣の主義主張を体現する学校であるから森友に加勢したのであろう。しかし加計に比べれば森友など総理にはどうでもいい存在であろうから、夫人がその後、夫の立場を危うくするほど森友に肩入れしてしまったのは、やはり過剰な「忖度」とするべきなのであろうか。


 「主語を言わない、直接的な動詞を用いない、見方によって意味が異なる表現をする」など責任回避話術「永田町会話」に振り回され自殺者まで出したのだとすれば、「朦朧表現は罪だ」といえる。

 

社会部デスク

 

ベーシックインカム:日本が天国となる日(2)

財源をどうするか

 前号で触れたスイスのベーシックインカム国民投票ですが、結局反対多数(77%)で否決されたとはいえ、無条件で全国民に毎月28万円を支給するという前古未曾有の試みでした。スイス政府がその財源をどう工面する予定であったのかについては不勉強なのですが、国際金融総本山のお国柄、全国民を給養しても足る「キャピタルゲイン」があるのかも、などと邪推するのは嫉妬の類いでしょうか。

 しかし産油国でもなく国際金融センターでもない日本では、そうはゆきません。現実を直視しながらベーシックインカム実現の可否を考えてゆかねばなりません。今回から、日本でベーシックインカムを実現するための「リアリティ」を考えてみたいと思います。

 

 

 もし日本でベーシックインカムを実施するとなると月額として「いくら」を支給することが妥当でしょうか。この制度開始の法理を憲法25条に置くとすれば、支給額は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保証する「額」でなければなりません。だとすると希望の党が想定した生活保護費の月額12万円は、一つの目安といえそうです。

 

 大雑把な計算ですが、独身単身者が一人で生活するための最低支出は、概ね以下の辺りではないでしょうか。

  • 家賃      40000円
  • 食費      32000円
  • 電気水道光熱費 15000円
  • 通信費      5000円
  • 被服・美容代      3000円
  • 公租公課           10000円
  • 保険料                 5000円
  • 雑費                   10000円

 (合計)       120000円


 無職であれば税金も最低額でしょうが、NHKを視聴するだけで毎月1260円が必要となるので公租公課で一万円程度は避けられません。またこのご時世で携帯やインターネットのない生活も考えられないので少なくとも5000円の通信費は必要です。病気に備え保険料も欠かせません。憲法25条は、「健康で文化的」生活を保証しているのですから、支出用途自由な雑費一万円が無くなれば文化的生活とは言えなくなってしまいます。

 ベーシックインカムとなれば年金制度は不要となりますので公租公課から年金は外しました。


 月額12万円でも、車がないと生活できないような遠隔地に居住している場合は、この中からマイカー維持費を捻出せねばならず楽な生活ができる支給額ではありません。不足分は仕事をして補えばいいわけですが、ベーシックインカムは近い将来国民全員が従事するべき仕事の絶対数が無くなることを想定しているのですから、「仕事をする」を計算にいれてはいけません。


 ということで、ここでは「国民全員に月額12万円を支給する」を前提に実現可能性を考えてゆきましょう。

 

 単身者月額12万円の生活は余裕がありませんが、夫婦となれば24万となるので幾分か楽になります。また子供が生まれれば、その分増額となりますが、ここでの試算としては、20歳以上の成人は一律月額12万円20歳未満は月額5万円として「実現」を検証します。 夫婦二人と子供二人で、月額34万円。ベーシックなインカムとしては、この辺りが相当であるように思えます。

 この条件で必要な年間財源を試算すると以下の通りです。

 

(試算)

 日本の人口  1億2500万人

 内 20歳未満の人口   2200万人

   20歳以上の人口   1億0300万人


   20歳未満への年間支給額総額  13兆2000億円

   20歳以上への年間支給額総額 148兆3200億円 

 

 必要な財源は、何と年間161兆5200億円に達し、現状の歳入(税収60兆+赤字国債発行40兆)を大幅に上回ります。到底実現可能とは思えません。ですが、もう少し検討を進めましょう。


 「山崎元氏の試算によれば、現在の年金、生活保護費、雇用保険、児童手当や各種控除資金をベーシックインカムに転用すれば、日本国民全員に毎月46000円の支給が可能(前号)」ですので、今のままでも69兆円は確保できます。問題は残り92兆円をどうするか、です。

 ここで現在でも多用される通貨発行益(つまり国債を発行し、日銀が回収するカラクリ)をそのままベーシックインカムに投入すれば、更に40兆円を確保できます。残額は52兆円です。

 さらに消費税1%増額は年間税収2兆円に相当するとのことですから残額を全て消費税で賄うとすると消費税額を26%に引き上げれば、ベーシックインカムの財源を確保できることになります。

 ただしこれは国家の年間歳入を全てベーシックインカムとして国民に給付してしまう計算ですので、国防費や行政サービスを維持する国家予算を勘案すれば、現実問題としては消費税を35~40%とするか、その他の税金を増税するなどしなければなりません。

 

 ソロバンをはじけば、かなり無理な非現実的な話です。ですがポイントは、「ソレデモ、やろう」と私達が決意するのであれば、全面的にリアリティが否定される「大ボラ」ではない、ということです。


 「大ボラではない」ことを前提に次回から財源以外のベーシックインカム実現の課題を追って行きます。


(続く)

社会部デスク

 

ベーシックインカム:日本が天国となる日(1)

 

 

 

 日本国憲法第25条には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあります。戦後、立憲主義(Constitutionalism)を導入した日本では、憲法とは国民が政府を統治するために定めた最高法規であり、「国民が国家権力を縛る」ために存在するのであって、(有力な憲法論によれば)国民には憲法擁護義務は無く、政府執政者(具体的には天皇国務大臣国会議員、裁判管その他公務員)の行為を規律するものだとされています(同憲法第99条)。

 

 この考え方に基づき、国は失業保険や生活保護費の支給など「セーフティーネット」と呼ばれる弱者救済政策を運営してきました。ところが近年、ベーシックインカムという全く異なる視点から第25条の社会保障を実現するべきだ、との意見があらわれました。そこには、ヒタヒタと従来とは根本的に異なる事態が迫っているという事情があります。

 

ベーシックインカム

 

 昨年10月の衆議院選挙に際し「希望の党」は、ベーシックインカム(Basic Income)実現を公約に掲げました。その後希望の党は惨敗したので、この話も立ち切れとなりましたが、この時はじめて、「ベーシックインカム」という聞き慣れない用語に出会った多くの有権者の印象は様々でした。
 ベーシックは「基礎」とか「基本」、インカムとは「収入」とか「所得」との意味ですので、ベーシックインカムは「基礎所得」とか「国民配当」などと邦訳されるのですが、要するに、政府が全ての国民に無条件で毎月、一定額の現金を支給する社会保障制度のことです。失業保険や生活保護と比べると、全員に無条件に配る点が大きく異なっています。

 

 希望の党は、生活保護費を算定基準として国民一人に月額12万円支給を検討するようなことを匂わせました。具体的な制度設計に入る前に惨敗したので、希望の党公約は絵空事と流れてしまいましたが、額面通りに受け取れば、無職でも夫婦二人で24万円、子供が二人いれば48万円支給となる勘定ですから悪い話ではありません。いや、悪い話どころか、一夜にして、この世が天国となる驚天動地とも呼ぶべき快挙です。


 にもかかわらず希望の党は大敗したのですから、多くの有権者は、「そんなことが出来るはずがない」と読んだか、仕事もせずに収入を得ることは不謹慎である、と考えたのでしょう。当の希望の党でも公約に掲げながらPRはごくごく控え目で、自信の無さが漂うあたりは、自分たちでも「そんなことが、、、、」であったように感じます。

 


 荒唐無稽な話と見えるベーシックインカムですが、世界の政界、財界の間では真剣に議論が始まっています。大統領選挙に敗北したヒラリークリントン国務長官は、選挙戦回顧録の中で「財源を確保し、アメリカでもベーシックインカムを導入するべきことを夫(ビル・クリントン元大統領)と検討していた」と明かしています。フェイスブックのマーク・ザッカーバークCEOやテスラ(全米NO1の電気自動車メーカー)のイーロン・マスクCEOも熱心にベーシックインカム導入を主張します。日本では、ホリエモンこと堀江貴文氏(元ライブドアCEO)が強力に擁護し、私財を投入して一部実験を開始したことが知られています。
 政財界でベーシックインカム論議が活発となるのは、急激なICTとAIの技術革新が、従来型の労働市場経済モデルが今後は成り立たなくなるとの危機感があります。

 

大失業時代

 

 自動運転技術が確立してしまえば、トラックやバス、タクシーの運転手は失業です。産業ロボットの進化により無人の工場はすでに珍しくはありません。医療分野では経験を積んだ医師よりも、膨大な医学論文と治験情報、無数の患者臨床ビッグデータディープラーニング(深層学習)した医療AIの方が、正確な診察と治療に貢献するようになりつつあります。高給取りとして花形であった為替・株式ディーラーも今日ではスーパーコンピューターの仕事となりました。作曲や小説の執筆といった人間でなければ不可能と考えられてきた職域にもAIはどんどん進出しています。

 

 生産、物流、教育、文化、社会活動全般に渡り、今後20年以内に人間が行なう仕事の90%は消滅し、現行スタイルで「働く」労働者は、2045年までに全世界の人口の1割程度に激減するとの研究報告もあります。ICTや自動運転の技術革新を進める大企業の経営者からベーシックインカム推奨の主張がわき起こるのも、彼らが思い描く近未来では「如何に労働力が不要となる社会が近づいているか」のリアリティがあるからとも言えます。


 技術革新により旧来の産業が衰退すれば、新技術から生まれる新しい市場に労働人口をシフトさせることがこれまでの国策でしたが、労働力そのものを不要とする技術革新の到来は、発想の異なる新しい政策が求められることを意味しています。「働く必要がない」社会がやってくるのですから、国民が「どう生きるか」、「何をするか」を考えねばなりません。
 ベーシックインカムの議論は、そういった文脈から考えてゆかねばならないのです。

 

財源をどうするか

 

 論理的にベーシックインカムに正当性があったとしても、財源がなければ実現できるものではありません。この点については、いくつかの私案が提案されています。経済評論家の山崎元氏の試算によれば、現在の年金、生活保護費、雇用保険、児童手当や各種控除資金をベーシックインカムに転用すれば、日本国民全員に毎月46000円の支給が可能であり、不足分のみ他の財源を開拓すればよい、とします。

 現在の消費税率8%から35.8%に引き上げることによってベーシックインカム原資を確保できるとの計算もあるようです。中には「政府の通貨発行益で賄う」という奇抜な案もあります。通貨発行益案とは要するに、ベーシックインカムに必要な資金は政府が紙幣を印刷して国民に配ってしまえ、という型破りな方法です。

 

 日本はバブル崩壊後の「失われた20年」に国債を大量発行、公共投資を拡大し、景気の腰折れを回避してきました。この間、政府債務は1000兆円を超え、大量発行した国債の取引価格が暴落し信用不安を引き起こさぬよう、中央銀行(日銀)が市中の国債を回収(買取)、大量の国債を塩漬け(非売品化)し、信用低下を防いできました(現在約400兆円の国債を日銀が保有)。このテクニックは、実質的には政府が通貨発行益で財政を支えているのと同じです。

 

 日本の年間税収(歳入)は約60兆円なのですが、歳出は100兆円となっています。現在でも年40兆円は国債発行(その後の日銀回収)を繰り返している状態です。1000兆円の政府債務とは、全国民に5年間、毎月15万円を支給したことに相当します。「日銀回収で、これまで済んだのであれば、今後は公共投資ではなくベーシックインカム財源としてでも成り立つであろう」との主張に、このテクニックを多用してきた政府としても反論はしにくいでしょう。


 ただし政党別に眺めると、ベーシックインカム推進を提唱しているのは野党のみで、与党の自民党公明党は反対の立場をとっていますので、現実問題としては、ベーシックインカムの法案が具体的に審議される可能性はほとんどありません。

 

職業倫理観

 

 勿論、ベーシックインカムは財源の問題だけではありません。職業倫理観との視点からの議論もあります。働かずとも収入があれば、人間は堕落してしまうのではないかとの懸念です。


 2016年6月スイスでベーシックインカム導入の是非を問う国民投票が実施されました。スイス国民全員に無条件に毎月2500スイスフラン(約28万円)を支給する法案の賛否を問う国民投票です。第三者から見れば、「こんなイイ話はない」と妬ましいほどですが、投票結果は意外にも反対77%の大差で否決されました。勤労意欲の低下がスイスの国際的競争力を奪うと考えた人が多かったのでした。

 

 2017年1月からフィンランドでも2000人を対象にベーシックインカムの実験が始まりましたが、就労観の変化は検証項目の一つとなっています。しかし専門家の一部は心配する必要はないと反論します。「労働する」は人間の本能(欲望)の一種であり、ベーシックインカムが始まれば、「儲けを伴わない業務に従事する人が増える。新しい価値や文化、技術は一銭の利益が無くとも10年、20年と継続するところから生まれることが多く、それが国富の源泉となる」というのです。

 

 

 いずれの主張が正しいのかは分りません。しかし検証に余り時間は費やせないかもしれません。長引けば、10年後、20年後とされる大失業時代が先に始まってしまうかもしれないからです。

 次回はもう少しベーシックインカムの実現可能性を考えてゆきましょう。

 

(続く)
                                 社会部デスク

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鼻血作戦:平昌オリンピックを巡る米朝中韓の駆け引き

北朝鮮にたいする米軍軍事行動はあるか

 

 平昌オリンピック開催が間近となった。新年早々、北朝鮮は異例にも韓国の冬期オリンピック開催に声援を送り、これに呼応した韓国提案の南北共同開催を承諾、IOCも同調・歓迎し、半島情勢に束の間の雪解けが訪れたように見える。


 しかし、観測点を変えれば半島はこれまでにはない緊張状態といえる。それはアメリカが「鼻血作戦(Bloody Nose Strike)」と呼ばれる軍事行動を検討していることが判明したからだ。鼻血作戦という用語自体は外信が命名したようであるが、「先に一発、鼻っ面にお見舞いすれば、顔面血だらけとなった相手は戦意を消失し、以後、コッチに服従する」ほどの含みがある。


 好機を窺い軍事施設等を限定攻撃(空爆巡航ミサイル)すれば、アメリカの本気度にたじろぐ北朝鮮は核放棄の交渉テーブルに出てくる、というのがトランプ政権の読みであるようだ。「全面戦争となれば国が崩壊する北朝鮮は、鼻血を流すだけで反撃しない」に期待する計画である。

 

 いつこの作戦が立案されたのかは分らないが、状況からすると相当以前から周到に準備されてきたように思える。トランプ大統領は就任早々米中首脳会談を開催、北朝鮮問題を相当踏み込んで協議したフシがある。会談後、環球時報が「外科手術」という表現で、アメリカによる北朝鮮限定攻撃容認の論説を公表した(2017.4)のも、協議結果の吐露と思える。つまり、鼻血作戦「的」な着想はすでにこの時から中国との調整事項として議題となり、一定の方向性につき合意していたと考えるのが自然だ。

 

 会談後、アメリカは中国の影響力行使で問題を解決する猶予期間を設けたが、ソレを察知してか、北朝鮮は常軌を逸した頻度での弾道ミサイル発射を繰り返し、核実験を強行した。ところが、昨年11月29日、2ヶ月ぶりとなる弾道ミサイル(火星15)の発射後、エスカレーションは鳴りを潜めた。タイミングは、事態が動かない中国の影響力行使にアメリカがしびれを切らす時期と重なる。そして新年となり「鼻血作戦」が漏れ出てくる。


 この経緯よりすれば、次の挑発行動で北朝鮮は鼻血を流す可能性がある。その切迫感を十分理解するが故に、北朝鮮はオリンピック融和で米韓関係を揺さぶっていると考えれば辻褄が合う。

 

 鼻血で問題解決へと流れれば理想的であるが、当然、そうでない場合の「次の一手」も準備しておかねば、「一発」はできない。次の一手で米中が合意し、協調しているとは考えにくいので、一手はそれぞれの思惑で独自の方策を企てているのだろうが、米中の利益が一致する手であれば、例えば、米軍による外科手術後、同盟国支援目的で人民解放軍北朝鮮に進出、強制的に中国寄りの政権にすげ替える程度の密約はありえる。

 

 鼻血のリアリティは、北朝鮮に中国造反の疑念を強化させる。挑発行動の矛を収めるため火星15号の発射実験をもって、ICBMを完成したと宣言し、核の防壁が完了したことを周知した。つまり、「完成したのだから、もはや実験は必要ない」として事態を取り繕うのだが、そこにはアメリカの一発に加え、中国介入への危機感が漂う。

 

 しかし実験が不十分であるとを北朝鮮も理解しているはずだ。ICBM保有国として国際的な認知をうけるためには、技術的実証と心理的刻印の二つが必要である。そのためには最低限、水平長距離射程による弾道ミサイル発射実験が必要となる。
 いかに暴君といえども、許可も得ずに第三国で核実験を行なえば、一夜にして全世界を敵にし、鼻血どころでは済まなくなるから、長距離水平射程実験は模擬弾頭実験となるはずだ。


 勿論、実験はアメリカ本土や沿岸への着弾は回避するだろうから、水平長距離射程は南太平洋北部(南米沖)辺りを実験場とする可能性が高い。もしペルー遠方沖まで飛距離を伸ばすICBMに成功すれば、例え模擬弾頭といえども全世界の脳裏に「核強国」を刻印できる。少なくも「あと一回、長距離水平射程実験を敢行したい」は、北朝鮮としては事を締めくくるための悲願であるといえる。

 

 結局のところ、安倍首相は平昌オリンピックに出席することになったのであるから、五輪期間中にアメリカが動くことはないのであろう。しかしその後は、鼻血が先か、南太平洋が先か、という状況となる。
 その時どうするか、日本としても態度と覚悟が求められる。

 

【国際部半島情勢デスク】2018.2.7配信