時事旬報社

時事問題を合理的な角度から追って行きます

老齢介護と向き合う(1)

介護という聖職

 


 今月(2月)3日、岐阜県の老人施設に勤務する33歳の介護職員が逮捕されました。入所していた91歳の女性に暴行し、肋骨を折る大怪我を負わした(その後死亡)との容疑です。この施設では、80代から90代の男女5人が一昨年から相次いで死亡や大怪我をしており、警察は5人全員の介護をしていた容疑者の関連も調べる方針です。

 

 事の真偽はまだ分りませんが、類似の事件は後を絶ちません。もし容疑が事実であれば言語道断ですが、考えてみれば逆ピラミッド型の年齢人口の日本にあって、老齢介護を絶対数の少ない若年層の体力に依存する政策は早晩行き詰まるに違いありません。

 

 800万人を越える団塊の世代が介護期となれば、多くの若年層が投入されざるを得ません。そうなったら誰が国の社会・経済を支えるのでしょうか。政府は、外国人労働者マンパワー輸入に活路を見いだそうとしているようですが、外国人に負わすべき問題でもないと思えますし、正論とはいえないでしょう。

 
 言うまでも無く理想的な施設介護は、介護者が自分の両親と接するような、人としての真心や思いやりが動機となる聖職であるべきです。しかし社会の構造として、理想の維持に限界があれば、現実問題として「どうするか」を考えねばなりません。もし「人手をかける」に限りがあり、且つまた「施設による集中介護によって介護の巨大需要に対応する」ことを前提とするのであれば、消去法的に残される方策は、AIやIoTなどのイノベーションを動員する機械(自動)介護を実現する他、道はないように思えます。

 

 遠い将来であれば、人型ロボット(アンドロイド)が聖職を担うかもしれません。しかし差し迫った問題は、5年後10年後という近時の現実対処を求められます。現存する技術で理想的な介護に近づけねばなりません。では、実現が見越せる技術をもって、いかなる理にかなう介護が実現できるでしょうか。

 

人間の尊厳


 記者も義父義母の介護を経験しました。共に痴呆が進み、車椅子生活で自宅と施設を行き来する状態となり、義父は半年、義母は二年余で他界しましたから、長期の介護が強いられるケースよりは幾分負担が少なかったかもしれません。

 

 この介護期間で記者には忘れられない痛恨事が起こりました。義父の最期です。肺癌であった義父は、自宅介護中に容態が悪化、緊急入院となりました。医師は今夜が限界と宣告します。意識無くベッドに横たわる義父を傍らに、間近に迫った「その時」に備え、妻(実娘)が夜通し病室に待機することとなりました。


 しかし医師の診断通りとはなりませんでした。義父はガンバリ、「今夜が危ない」がその後、一週間続いたのです。この一週間が家族にとっては過酷でした。家族持ち回りで看病をするのですが、とりわけ妻の負担が大きく、すでに3晩病室で夜を明かしていました。
 仕事帰りに病室を見舞った記者は、疲労困憊した妻に「今日は自分が代わるから自宅に帰って休め」と告げましたが、それから30分、容態が急変、なすすべもなく義父は死んでしまったのです。

 

 この時、記者はほとんど確信的に悟りました。「私の不用意な一言で、義父はこれ以上生きていることは迷惑となるを観念し、死んでしまった」に違いない、と。「意識もなかったのだから何を言っても聞こえない」と妻は記者を弁護しますが、「意識がない」は医療機器が意識を「計測できない」に過ぎず、「痴呆が進んだ」、「外界に反応しなくなった」とは無関係に、義父の深い心奧の意識は呵責に苦しんだであろうし、少なくとも本人を前に病室でアノようなことを話すべきではなかった、と記者は今でも消沈します。

 

 類例は義母でもありました。自宅介護となりベッド生活をする義母ですが、トイレの世話は妻(実娘)が行なっていました。痴呆も進み、無表情となっていましたが、人の見境がつかなくなるほどひどくはありません。尿意便意を申告することはできますので、おむつをするまでもなく、トイレまで妻が抱きかかえ移動し、用を足していました。

 

 ところが、たまたま義母と二人だけの日に義母がベッドの上で排便してしまいました。一瞬記者は戸惑いますが、義母は全くの無表情です。「気がつかなかったことにする」もあり得ましたが、相手はおそらく羞恥心もなくなった痴呆老人であろうから、このまま不快な状態とさせるべきではないと考え、用便の後片付けを始めました。

 

 汚物を拭き取り、ベッドの敷布を変え、下着を履き替える。義母は終始無表情でした。その日より今日に至るまで、悔やんでも、悔やみ切れない大失態が、この時、記者の態度がお世辞にも「心がこもった」ようなものでもなく、それどころか嫌悪感丸出しであったことです。マネキンのように見える義母に感情的な気遣いが必要であるとは思えなかったのです。

 

 しかしソレは大きな間違いに違いありません。義母の奥深い内面では、記者の態度に憤慨し、どれだけ恥ずかしい思いであったか、と想います。ほどなく義母の介護度は進み、やがておむつとなり、次第に介護施設で過ごす期間が長くなり、その施設で亡くなりました。

 

 教訓は、感情的な反応が無い、あるいは会話が成立しない支離滅裂な状態となった末期の痴呆老齢者といえでも「人間としての尊厳」を自覚しているに違いない、ということです。義父と義母には申し訳ないことをしました。

 

完全機械介護 

 

 崇高なヒューマニティが求められる「介護」を工場オートメーションのように「自動化する」、と言えば誰もが不謹慎と思うでしょう。しかし機械化は必ずしも非人間的とは限りません。人間の尊厳とは、「他人からヒトとして接遇される」との意味もあるでしょうが、その前提として「自分のことは自分でやる」を土台としていると想えば、人生最期の一呼吸まで、「自分の面倒は自分でみる」が理想なのであって、もし肢体が不自由というのであれば、機械を道具として肢体を補助しながら「ソレでも自分でやる」が、第三者の仁愛に優先するべき価値がある、といえます。

 

 AIやIotなどの技術革新は駆け足で進んでいます。運転士のいない無人運転も10年後には実現されるとの予測もあるほどです。生産や物流に関しては、一切、無人化に抵抗がないのに、聖職である「介護」に関しては、全面的な機械化が倦厭される現状が、記者にはもどかしい限りです。

 

 無人運転を実現するほど技術が進むのであれば、体の不自由な高齢者がボタン一つで誰の助けも求めず一人で「用を足す」システムも出来るはずです。アノ時、そのシステムがあれば、いかほど死んだ義母の尊厳が保たれたであろうか、と記者は悔います。

 

 次回は「機械による介護は不可避」を前提として、AIやIotなど現在見通せる技術を総動員すれば、どこまで完全自動介護が可能か、どこまで省力化が可能か、どこまで機械を道具とする「人間的」な介護が実現できるかを追います。

 

(社会部デスク)