時事旬報社

時事問題を合理的な角度から追って行きます

「進化」という摩訶不思議な動力(2)

 

 

 地球が誕生したのは約46億年前、最初に「生命」が生まれたのが約38億年前とされる。生まれたばかりの原始的な生命は、海の中で合成されたアミノ酸、塩基、糖などの有機物であった。その生命がやがて単細胞を生み、更には多細胞、無性生殖から有性生殖へと進化を続ける。

 人類最初の生命体であった有機物に「意識」があったとは思えない。したがって原始的な有機物自身が「もっと高度な生命体になりたい」と願って進化を発動させたと考えることはできない。進化という動力は天与のもとする他ないのである。

 一体いかなる創造主が、生命体に進化という動力を宿したのかは分らない。広大な宇宙の中にあっても生命体が出現可能な環境はごく一部である。しかし奇跡的に生命体が誕生すれば、進化が抱き合わせで運命付けられた。

 この運命が地球限定であるのか、地球外生命体についても等しく機能するのかについては検証のしようもないが、運命は宇宙全体の生命体にあまねく宿る神秘的な動力だと考えるのが自然であるように思える。

 何故、そのようなことがおこるのであろうか。進化とは不思議である。

 いかなる天運が進化という動力を生命体に組み込んだかは不明であるが、それが何を目的としているのかは明白である。進化は明らかに「種の保存」を目的としている、つまり、種の絶滅を回避するために進化がおこるのである。

 同族種の絶滅を回避するために、同族種進化がおこる。更に種の存続に有利となるのであれば、異種へと進化する新種進化が起る。その結果、地球上に無数の「種」が出現した。勿論、人類も進化の産物である。


 その進化であるが、「競争力進化」と「適者耐性進化」の二つを達成目的としているといえる。競争力進化とは、弱肉強食の世界にあって「強く」「早く」「高く」といった能力を向上させ捕食機会を拡大するための進化であり、適者耐性進化とは氷河期に突入したとか、食料不足になったとか、環境変化に適応するための進化である。共に「試練に打ち勝つ」が動力源となる。進化とは要するに天運が「競争に晒し、そこから勝ち昇る」ことを生命体に運命付けたメカニズムとすることができる。


 適者耐性進化は生命体にあまねく平等な試練となるため、異種間もしくは同種間競争を考える必要は無い。しかし競争力進化は、種と種の間もしくは同種間の競争を前提とする。


 この内、同種競争力進化は、同族の内部競争の結果おこる進化である。個体がその一代で進化することはないが、「あれが競争に不利だった」、「これがあれば競争に勝てる」など、個人の社会生活で得た意識が、次世代の子孫に変化として発生する。


 「意識する」が同種競争力進化の動力源である。生物の遺伝子内に進化の動力が組み込まれている限り、「競争」との視点から仲間を「意識」することは宿命であるように思われる。

 人間であっても宿命から逃れることはできない。「誰よりもお金持ちになりたい」、「誰よりも素敵な異性と結ばれたい」、「誰よりも高い社会的地位を得たい」など他人よりも比較優位したいという今日的な俗人欲も、根源的にはヒトの胎内の奧底に宿る進化動力が、本能的に意識させる、と考えることもできる。


 そうであれば、ヒトとして社会で「生きる」ということは、「競争する」つまり「他人に打ち勝つ」が本質であり実体なのであろうか。


 人間社会とて、アルファ雄が群れの雌を独占しハーレムを形成する猿社会と同じだ、と主張することは可能であるし、それを同種競争を原理とする進化の宿命とすることもできる。事実、個人間であろうが、家族や法人間あるいは地域領域単位、更には国家間に至るまで無数の競争が生まれ社会を動かしているように見える。

 しかし、「人間は猿と同じだ」と断定してしまえば、多くが落胆するに違いない。人間は動物とは異なる崇高な存在でありたい。しかし人間は、はたして他の動物とは異なる特別な生命体なのだろうか。

 この「問いかけ」に対し、「ソウではない」と反論する方案は、いくつもあるに違いない。しかし記者には、この発問を寄り切る極め手は、「人類だけが科学を手にした」に尽きるのではないかと思える。

 人間の英知だけが、唯一、宇宙や大自然の法則、生命の神秘解明に迫りつつある。他の生物にはない、人間だけの特権といっていい。

 


 さて、では「科学」とは何であろうか。科学の定義も多数存在するであろうが、記者は、「現象」つまり「ヒトが知覚できる事物」に「原因」があり、その「結果」が「法則性」で結ばれる場合、その法則性を解明することが「科学」である、と考えている。


 科学が法則を解明することにより、現象の「結果」を知れば、その「原因」を究明できる。「原因(現状)」を観れば、その「結果」を予測することができる。この関係を「科学」としよう。

 天運が地球最初の生命体に進化動力を組み込んだのと同じほど、「人間のみが科学を育てる特権」を天与されたことが記者には不思議でならない。しかし「なぜか」はともかく、与えられた特権の意味を熟考し、科学を得た使命に介意する必要があると思う。

 科学のおかげで、自然まかせ、成り行きまかせであった生命体の宿命をヒトだけは、随分人為的にコントロールすることができるようになった。自然の猛威によって例え地域的な凶作がおこっても、発達した物流が飢饉を防ぐ。生命が生きられないような酷寒酷暑の土地であっても、生活空間の温度調整によって定住圏となった。今では死を回避できないような病気は大方無くなった。そして最新の生命工学は「成長と老化」、「遺伝」、「生と死」といった神の領域のメカニズム解明に肉薄する。


 科学は人類に「進化に頼らずして種を継続維持する道」を整備してくれる。これが重要だ。ヒトだけは弱肉強食、適者生存に拠らずとも種を滅亡から守ることができる。科学は競争を追放できる。


 科学は、この目的に沿うよう行使されねばならない。科学という人間だけが持つ特権の行使は、「競争のない社会を造る」を使命としていると思いたい。


 そうであるが故に、戦慄するべき悪夢もまた脳裏をよぎる。38億年前から連綿と続く競争動力が科学と一体となってしまう事態である。科学が弱肉強食、適者生存を後押しする道具となってしまえば、生命体に明日はない。科学は地球全ての生命を絶滅させる力も持っている。競争の本質とは、とどのつまり、行き着く所まで行ってしまうのだから。

 
 人類は今、煉獄にあるといえる。

 

 

(編集部主筆